GINGER BERRY様のブログにて公開されている「男子高校生、はじめての」第5弾の前日譚『さつきやみ』の後のお話です。



エニシダ




 リビングに取り残された春惟は、しばらくの間、グラスに半分ほど残ったジュースをじっと見つめていた。
 誰もいないのに、何か表情を作らなければいけないような気がして、なのにどうしても無表情から抜け出せない。ふと顔を上げて後ろを振り返ると、窓の向こう側でざあざあと雨が音を立てていた。
 さっき慧斗はこれに当たったんだな、と春惟はぼんやり考える。慧斗が雨に濡れている間、おそらく春惟はキスをしていたし、撫でたり触ったりしていた。
 好きなのかな――。
 雨で霞んだ小さな庭を見るともなしに眺めながら、春惟は直前まで笑顔で会話を交わしていた女の子を思い浮かべる。
 慧斗よりずっと背が小さくて、柔らかくて細くて瞳がぱっちりしていた。甘ったるい匂いと声に、形の整えられた爪に、気を引くような上目遣い。春惟はどれも満足していた。
 でも今まで付き合ってきた子も、大抵そうだった――。
 どこが違うのか、春惟にはよくわからない。春惟の事を好きだと言ってくれて、でも彼女たちは皆、恋に恋しているみたいだった。別れる瞬間の、ほんの少し棘の刺さるような痛みさえ過ぎ去れば、彼女たちはまたすぐに別の恋愛話に花を咲かせている。春惟に好意を寄せてくるのは、そんな気軽な子達ばかりだった。
 好きなのかな、と自分で考えておいて、春惟はその答えを見つける努力もせず、残りのジュースを飲み干した。無心で二人分のグラスを洗うつもりだったのに、シンクに置かれた慧斗のグラスを手に取って、そこにたっぷり満たされていた水をこぼしてしまった時、春惟の顔が痛みに歪んだ。
「風邪ひいちゃうよ――」
 慧斗の黒い、濡れた髪を思い出して、誰もいないリビングで呟くように心配を繰り返してみる。泡のついた指先が、無意識にグラスのふちをたどって、慧斗の唇が触れた場所を探そうとしている。それがいけなかった。
 今さっき、何かが塗りたくられてべたべたした唇とキスをしたはずなのに、笑顔で囁きあったはずなのに、胸の中はすかすかになって、乾燥していることに気付いてしまう。
「う――」
 にわかにせり上がってきたものに怯えて、春惟は手にしていたグラスとスポンジを手放した。
 泡のついた手のままリビングを出て、廊下を横切って階段を駆け上がる。耳に届くドライヤーの音が怖くて自分の足音に意識を集中させたいのに上手くいかない。慧斗、慧斗、といつもいつまでも繰り返しているこの心はスイッチの効かなくなった目覚まし時計みたいで、これを止められるなら何だってしたかった。だから良くないと分かっていても次から次に女の子と付き合うのがやめられない。何とか気を逸らして、鳴り続けている名前に聞こえないふりをしていないと、殴り壊してでも止めたくなってしまいそうだった。
 自室に入ってドアを閉めて、春惟は扉を背にしてずるずると崩れ落ちる。
「もう――」
 乾いた唇から情けない声が漏れる。ドライヤーの音はもう遮断されている。でも雨音が、春惟を慧斗の濡れた髪へ攫った。
 頭おかしい、へん、ばか――。
 頭の中で引き裂きながら、春惟は腰のベルトに手をかけた。瞼を閉じて覚悟を決めて、下着の中に手を忍ばせる。
 こんなのは良くないとしか思えないのに、触った場所は強張っていた。こうやって不意を突かれたように興奮すると、いつも処理する時よりずっと気持ち良くて早く終わってしまうと知っている。頭の中で、慧斗の濡れた髪を撫でて顔を覗き込みたいのに、どうしても上手くいかない。そんなことは起こり得ないと知っているからだ。
 それでも体が先走って興奮を増していくのは、この次に何を思い浮かべるかも分かっているからだった。
「慧斗――」
 ぎゅっとしがみついて、泣いてくれたのは、子供の頃だった。
 そんな姿に興奮するなんてどうかしていると春惟は思う。でもそれは本当にあったことだ。成長した今の慧斗の姿で、絶対にありえないいやらしいことを妄想するのとどっちがましでまともなのか、春惟にはわからなかった。
「っあ……あ……」
 思い出に気を取られて、手はぎこちなく撫でているだけなのに、もう濡れた音がしていた。記憶の中で春惟はキスを繰り返す。春惟だけを見る慧斗の濡れた瞳は、完全に春惟を信じていた。
 座っているのが辛くなって、春惟はドアの前で体を横たえた。発熱して滲んだ汗で、制服が湿りはじめている。
 ゆっくりと階段を登る足音が近付いてきて、春惟は息を詰まらせた。ずきずきと胸が軋んで、なのにもう手は止まらなくなっていた。
「けいと……」
 部屋の外に聞こえないことを確かめるように、春惟は呼んだ。引き攣った足でドアを蹴ってしまいそうで、でもそんなふうに自分だけが惨めな状態で全部気付かれてしまうならそれが一番良いような気もする。
 足音が通りすぎると、春惟の泣いているような呼吸音に重なって、隣室のドアが開閉する音が響いた。
 改めてきつく瞼に力を入れると、何故か涙が目尻から溢れて、思い出の中の慧斗と一緒になって泣いているような気になってくる。少しだけ記憶をねじ曲げて、春惟はまだ幼い慧斗に大人のキスをした。自分の姿は、子供なのか今のままなのかわからない。
 口の中でじわ、と唾液が滲んだのは、本当の感触が欲しくてたまらないからだ。涎が分泌されるのは、お腹が空いてたまらない時だけではないらしい。
 恐る恐る舌を入れて、でも罪悪感に駆られてすぐに顔を離すと、慧斗の濡れた瞳が求めるように春惟を見つめて、小さく囁いた。
(は、る――)
 春惟の体が大きく引き攣って、理屈が消える。溢れはじめた快感に、春惟は抗わなかった。
「あ……あ……けい――……」
 片手で自分の口元を抑えて、春惟は体を丸めた。手のひらの中で唇を噛んで、泣き出しそうな声を心と一緒に閉じ込める。滲み続けている涙は何のためのものなのか分からない。擦って吐き出して心臓が脈打つ度に、慧斗の幻影が遠退いて、いつの間にか聞こえなくなっていた雨音が忍び寄ってきた。
 子供の慧斗は、春惟がどんなふうに慰めでも泣いていた。泣いても泣いても慧斗の痛みは尽きない様子で、だから子供の春惟は、この先もずっと慧斗は自分を求めてくれるのだと勘違いしてしまったのだ。
 ほんとばか――。
 乱れた呼吸のまま、春惟は自分の間抜けさを恨んだ。
 どうせ慧斗は、もう、覚えてないのに。
 昔も今も春惟だけが慧斗の隙を探していて、慧斗に求めるものも、そのやり方もどんどん歪になっている。他人だったらきっと、さっさと告白して振られて諦めるための努力が出来たのに、その方がずっと楽だったのに、春惟はいつもそう思う。
 少しずつ呼吸が落ち着いて、でも春惟はしばらく横たわったまま、死んだようにじっとしていた。
 雨音はいつの間にか止んでいて、隣の部屋から微かに、慧斗が窓を開ける音がした。今窓を開けたら慧斗の部屋の空気が少しはここに流れてくるのかなと想像しながら、春惟は手のひらで乾き始めた自分の体液に虚ろな視線を投げる。
 どうしてこんなことをしたいんだろう――。
 春惟の視界が、ぼんやりと白く滲んだ。
「好き――」
 隣室に聞こえるかな、と思いながら、でも絶対に聞こえない声で言ってみる。
「慧斗、好き――」
 手のひらを握りしめて、もう一度瞼を閉じる。そこにはもう誰も見えなかった。
「……好き……」
 届かない言葉が、音になった端から意味を失って消えていく。熱くなった目の奥がじんと痛んで、もう無理なんじゃないかという気がしてくる。何が無理なのかはわからない。
 早く忘れなきゃ――。
 思い出さないように、何も考えないように、春惟は「早く忘れなきゃ」を繰り返す。握りしめた手の中で、春惟から溢れたものが冷たく固まりはじめていた。



2016.07.29

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