8弾本編から一年後の柿谷省吾の話です。
何でも許せる人向けですのでご注意ください。



氷菓



 この気持ちに、なんと名前をつければいいだろう。
 出会った時、その愛しさは友情だった。
 便利な言葉だ。今だって、間違ってはいない。
 でも何かがいけない場所にはみ出している。
 瓶のふちについたジャムみたいに。
 無視しようと思えばできるし、でも蓋を閉める時はやっぱりどこか心に引っかかる。
 確かにわかってることは、俺は、いい加減、自分が嫌いになりそうで。
 もう、友達の――瑞祈のそばにいる資格はないんじゃないかってことだ。



 当時は気付いていなかったけれど、違和感が生じはじめたのは、高校二年の秋。学園祭が終わった後。放課後の教室で、瑞祈から『恋をした』という告白を聞いてからのことだった。
 それから俺は数ヶ月かけて、この違和感は、いわゆる嫉妬というものに限りなく近いんじゃないかと検討をつけた。
『もし、瑞祈が俺のじゃなくなったら……』
 強引に言葉にしたら、そんな感じだと思う。全然、正確ではないし、そもそも瑞祈は俺のものでもないけれど。
 嫉妬だとして、今までのことで後悔があるのか、俺はわからない。
 俺は女の子が好きだ。男が気になったことなんて一度もない。
 瑞祈と俺はいい親友で、信頼しあっていて、時々甘えられて、頼りあえて――そこに、恋愛感情も、性的な欲望もなかった。
 だからもし、瑞祈が女の子と付き合いはじめたんだったら、心の底から祝福できたと思う。
 なのに、瑞祈の心を奪ったのは同性が現れた途端、『もし出会った時からこの違和感に気付いていたら、自分にも可能性があったのだろうか。そうしたら何かが違ったのだろうか』なんて考えていた。
 不思議だ。
 瑞祈の笑顔が大好きだったのに、『特別な先輩』を語る時の笑顔から、気付くと目を逸らしている。
 交際を始めたらしいと気付いたのは、年が明けてすぐのこと。深夜、用もなく瑞祈から電話がかかって来ることが増えた。
『先輩と会えないし連絡もできないから、寂しくてつい……』
 不幸なことに、その言葉を額面通りに受け取るほど、俺は鈍くなかった。初めて、今まで大好きだった瑞祈の素直さや、隠し事が苦手な純粋さを苦く思った。
 電話で先輩の話を聞くたび、『俺ならそんなことは言わない、そんなことはしない、もっと瑞祈を大事にする、どんなに忙しくたって、数秒声を聞かせることくらいできるだろう』と思ったけれど、もちろん瑞祈は、俺にはそんなことを求めていない。俺は『先輩の代わり』だ。寂しさを紛らわせて寝付くまでの、クロスワードパズルみたいな存在。本当に求めているものが現れたら、手に入ったら、すぐに必要なくなる。でも俺は喜んで自分の役目を引き受けた。
 俺は、ピアノを弾けない。
 どんなに大事にしても、彼の代わりにはなれない。
 時々、先輩と二人きりでいる時の瑞祈の顔を想像する。
 きっと、歌ってる時みたいに色っぽいんだろうなと思う。
 これ以上、瑞祈の知らないところで友情を壊したくない。
 なのに夜になると、また電話が震えだす。
 友達としての引き際ってなんだろう、と考えながら、瑞祈が頼ってくれるのを待っている。
 そんな事を繰り返すうち、再び秋が訪れた。



「うわ……ほんとに寝てるし」
 寺嶋は部室に現れるなりそう言うと、スクールバッグの中からスマホを取り出し、俺と――俺の膝の上に頭を乗せて、並べた椅子の上で熟睡している瑞祈にレンズを向けた。背負ったベースを下ろしながら、「これアップしてもいいよな?」と行儀悪く机に座る。
 寺嶋と一緒に現れた芦屋は、「今日は練習無理そうですね、起こしたら可哀想だし」と肩を落とした。夏が終わって芦屋以外は部活を引退したけれど、全員の意思でバンド活動は継続していて、部室が開いている日は、時々利用させてもらっているのだ。
「こらこら。俺はいいけど、ちゃんと瑞祈の許可取ってから……」
「あ、もう投稿しちった」
「削除しとけって」
「瑞祈、何あげても嫌がらないし、いつも許可なんていらないっつってるからいいだろ」
「……そうは言っても……」
 脳裏に、いつも江純が熱っぽく語る先輩の顔が過る。彼が見ているのかはわからないが、いい気分はしないだろう。
「うわ、反応はえ……この手の写真だとすぐぽんぽんいいねがつくのって、なんなんだろな。ライブ中の写真より人気あるっておかしいだろ」
 寺嶋が大げさに仰け反って、机の上に座って足を組む。
「もうお前ら付き合ってるってことにすれば、人気爆上がりすんじゃね? 曲聞いてもらえるなら、きっかけなんて何だっていいし」
「クラスの女子が言ってたんですけど、こういうのって、匂わせがいいらしいですよ。答えがわかっちゃうと、なんか違うって。女の子ってよくわかんないですよね」
「匂わせ……? でもこの間のキスしてるように見える写真、すげー拡散されてたじゃん」
「あれも匂わせに入るんじゃ?」
「いやキスしてたら匂わせもくそもないだろ……」
「触れてなかったら匂わせですよ。でも確かに、難しいですよね、ファン心理って……」
 二人とも、俺と瑞祈がどうこうというより、単に「人気を出すにはどうすべきか」について語っている。どんな曲がウケるかとか、セットリスト、ファンの反応の分析、SNSの活用や、最近は衣装のことまで二人の考えに任せていた。いかにファンを獲得するか、ゲーム感覚で戦略を練るのが楽しいらしく、かなりドライな考え方をしているおかげで、そこそこ結果もついてくる。
 つまり、〝バンドの方向性〟なんてものはあってないようなものだった。幸か不幸か、音楽に対して強い理想や拘りのあるメンバーが一人もいないおかげで、我がバンドは平和だ。瑞祈は歌う事自体が好きだからどんな曲でも楽しんでいるし、俺はギターを弾けて、皆が楽しく活動していたらそれでいい。
 寺嶋と芦屋は、俺と瑞祈をどう〝絡める〟かについて、随分熱心に話し込んでいる。当事者である俺は、完全に蚊帳の外だ。
「男同士だとさ、キスくらいふざけて出来るし、求められてんのは、匂わせっつうより、ナチュラル感じゃね?」
「あー……確かに……?」
「でもまーどっちにしろ、それ以上やれっつってもやんないしなー」
 寺嶋が不満げに、俺と瑞祈を睨む。
「それ以上って。割と今、ギリギリセーフ、くらいな感じだと思いますけど……」
「んじゃギリギリアウトじゃね? ってとこ狙ってこーぜ」
「お前ら、俺たちのこと何だと思ってるんだ……」
 聞こえなかったのか聞こえないふりをしたのか、寺嶋が「じゃあ試そ、わざとらしいやつ」と言ってスマホを操作し、芦屋を抱き寄せて、頬に唇をくっつけた。
「ぎゃあ、っ……!」
 芦屋が、叫びかけて――寝ている瑞祈を見て慌てて口を噤む。
「ブレんだろ、じっとしてろ」
「そもそも、僕と寺嶋先輩じゃ受けないと思いますよ……。江純先輩と部長がイケメンだからじゃないですか?」
 肩を抱かれたまま冷静に突っ込んでいるあたり、芦屋は本気で嫌がっているわけではないようだ。寺嶋は芦屋の耳元で「は? 俺もイケメンだし」と言いながらもう一度キスをして、素早く自分たちを写真に収めた。
「ちょっと! 撮り直して下さい! 今僕、絶対変な顔してましたよね!?」
「はいはい、かわいいかわいい」
 芦屋が喚いている間に、投稿を終えたらしい。芦屋が慌ててズボンのポケットからスマホを出して確認し、声を震わせた。
「ひぇ……もういいねついてる……」
「うーん、わからんな……。芦屋、これからお前んち行ってもうちょい濃いやつ撮ろう。どういうのが受けるか実験しようぜ」
「はあ!? 嫌ですよ僕、こんな写真ネット上に――」
「だって瑞祈寝てて練習になんないじゃん――あ、勃起してる」
 寝ている瑞祈を見下ろして、寺嶋があっけらかんと言った。
 頭を撫でてやっていた手を止めて、瑞祈の身体を見下ろす。
 寺嶋が言った通りの状態だった。
 何も知らない瑞祈が、「んー……」と眉を寄せて、太腿に頬を擦り付けてくる。多分、ねだられている。再び頭を撫でてやると、また健やかな寝息が続いた。
「へぇえ……僕、江純先輩って、何もついてないんじゃないかと思ってました……なんか、メルヘンっていうか……」
 こんな時、いつもなら寺嶋を諌める芦屋が、妙に感心して江純の局部を見ている。自分が見られているわけでもないのに居た堪れなくなってきて、「寝てる間に立つことくらいあるだろ、ほっといてやれよ」と視線で追い払った。
「何だよメルヘンって。でもま、わかる気はするなー、俺瑞祈だったらいけるかも。ライブの後汗だくなのとか、ちょっと色っぽくね? いっつもいい匂いするし」
「あ、僕も先輩の匂い好きで、前に教えてもらいました。すごい高いブランドの香水。何だったかな……」
「やっぱなんかつけてんだ」
 言いながら、寺嶋が玩具でもつつくように瑞祈の股間に指を伸ばした。行動が想定外すぎて、止める隙もない。
「んん、っ……」
 二年以上一緒にいるのに、聞いたことのない――とんでもなく甘い声だった。
 妙な空気が流れる。
 芦屋の顔が赤い。
 でも俺は、不思議と冷静でいられた。多分、皆がいたからだ。「三樹。怒るぞ、本気で」と睨みつけて、リーダーの顔をしていられた。
「……うーん、確かに、洒落にならんな。てわけで、処理はリーダーに任せるわ。いくぞ芦屋。エロい写真撮ろうぜ」
「いやだから、僕と寺嶋先輩じゃフォロワー増えませんて……」
 寺嶋はやりたい放題やって、芦屋を連れて部室を出ていった。
 出来るだけ瑞祈の身体を見ないように、眠っていられるように、頭を撫で続けてやる。きっと今日の夜も、寂しくて眠れずに電話をしてくるだろうから、眠れる時に休ませてやりたい。
 次第に日が暮れはじめて、雑然とした部室が赤く染まり始める。
 同級生の寝息と、柔らかい髪を撫でる乾いた音。
 いつまでもこの時間が続けばいいのにと思ったけれど、十分後、瑞祈は大きく伸びをして、それから膝の上に頭を載せたまま俺を見上げた。
「ん……、……あれ……省吾……、……あれ……?」
 多分寝ぼけている。
 身体のことに触れるつもりは、もちろんない。だって――酷い気持ちになるのは、多分、自分の方だ。
「僕……何で寝てるの、」
「部室着いてすぐ、ちょっと横になるって言って、そのまま。ずっと寝不足だっただろ? 夜、俺との電話切った後も、なかなか眠れないって……あと中間試験もあったし、疲れてるんだろ」
「うん、……あれ? 三樹と芦屋くんは……?」
「さっき帰った」
「そんな。起こしてくれてよかったのに……」
 のろのろと瑞祈が身体を起こす。長い前髪の中でぐしぐしと目を擦って、「なんかすごい夢……」とだけ言って、口を噤む。聞きたくないからそれでよかった。それから、身体の変化に気付いたらしい。「わぁ」と慌てて両手で股間を隠して、前髪の間から、ゆっくり俺を覗いた。
「……っみ……みた……?」
 聞かれたら、嘘はつけない。というか、俺は嘘をついたほうが楽かもしれないけれど、乱暴な誤魔化し方をしたら瑞祈が可哀想だ。「まあ……」と曖昧に微笑んで、瑞祈の為を装って、自分の為に抱き寄せて顔を見なくて済むようにした。なのに。
「ん、っ……」
 また、聞いたことのない声が響いた。今度は耳元で。
 エロい声だ、やりたい、とか、そんな理由でどきっとしたなら、まだ自分を許せたかもしれない。
 だって言っていた。寺嶋だって。『瑞祈ならいける』と。
 だからショックだったのは、この声も、身体も、絶対に手に入らない悲しさを感じたからだった。重症だ。手に負えない。
「しょう、ご、……」
 江純は硬直して動かない。吐息は、ライブの後とは違った熱を孕んでいる。
「……えーと、……顔見えたら、気まずいかなとか、……」
 素直に思った通りの事を言うのが一番いいと思ったのに、追い詰められていくのはどうしてだろう。
「うん……ありがと……ほんと、ごめん……」
「……先輩の夢でも見てた?」
 聞きながら、聞かなければよかったと思っている。瑞祈が息を止める。それが答えだった。それで今度は、聞いてよかったと思った。お陰で少し、冷静になれたから。
「う、ん、……」
 襟足をくしゃくしゃと撫でてやる。
 多分俺たちは、親友だ。それ以上かもと思うことすらある。
 キスするのも、もしかしたら――身体を慰めるふりで襲うのだって、簡単なのかもしれない。でも本当にそれが望みなら、夏休みにうちに泊まりに来た時とか、修学旅行で風呂に入った時とか、気付くきっかけは、いくらだってあったのに。
「……落ち着いてきた?」
 撫でる手を止めると、江純が首を横に振る。
「……えっと……まって……」
 緩く押し返されて、そっと下腹部を覗き見た。さっきより張り詰めて、辛そうになっている。
「省吾に……こうされると、……先輩、思いだして、……」
 もうそんな奴忘れろよ、という言葉が喉元まで出かかった。もし相手が女の子だったら、そう言ってたと思う。でも――まるで嫉妬みたいで、俺は何も言えなくなる。
「前も電話で言ったけど。ちゃんと抜いてる?」
「一人ですると……終わった後……最悪な気分だから、……」
 聞きたくない言葉ばっかりだ。一人でしなくて済む方法を知っている、というふうにしか聞こえない。じゃあ俺がやってやろうかって返したらどうするんだろうといつも思う。きっとそんな想像、これっぽっちもしていないか――もしかしたら、簡単に触らせてくれるのかもしれない。でもそれは、俺が特別じゃないってことの証明でしかない。
「電話で俺が何度も言ったこと、覚えてる?」
 瑞祈は、おろおろと視線を彷徨わせた。それから、泣きそうな顔でもごもごと答える。
「……生理現象、だから……、大したことじゃ、ない……」
 褒めるように頭を撫でると、居た堪れないように俯いた。
「せーかい。俺、外出てるから抜いときな。そんなんじゃ、帰れないだろ」
「……え……? ちょっと省吾、待って、僕、こんなとこで……!」
 本当は、これ以上瑞祈の反応を見るのが怖かっただけだ。部室を出て、トイレの個室に入って、頭から瑞祈を追い出して、教室で騒がれていたアイドルの画像を思い出した。名前なんて覚えてない。でも胸がでかかったのはちゃんと覚えてる。それで足りるはずだ。瑞祈だけはいけない。そんなことをしたら、きっと少しずつ俺たちは壊れてく。なのに、さっき抱き締めた感触が忘れられない。でも、俺は一体、想像の中で、瑞祈をどうしたいんだろう。どうするつもりなんだろう。
 いっそ、逃げることをやめて、一度徹底的に欲望のままにひどいことを想像してみればいいのかもしれないと思う。でも俺の欲望って、一体なんだろうと思った。抱きたいのか? でもそれで何が手に入るんだ? 自分のものにしたいのか? 自分のものってなんだろう。だってもう親友で、これ以上なんてない。なら恋人? 恋人と親友はどう違うんだ? 身体の関係があるかないか? じゃあやっぱり抱きたいのか。でも俺に抱かれて喜ぶ姿なんて、どうやったって想像できない。それよりはまだ、寂しがってる弱みにつけ込んだり、頼んで抱かせてもらう方が現実的だ。でも俺は、笑顔で自由に振る舞う瑞祈が好きだ――。
 考えるほど思考にモンタージュがかかって、ベルトの金具に触れて、しばらくそのまま迷っていた。ブレザーのポケットの中で携帯が震えて救われた気がしたのに、ディスプレイに浮かんだ名前を見て絶望的な気持ちになる。
「……先輩、電話に出なかった」
 ああ、頼ろうとしたのか。
 そうだよな。
 でも、そういう奴だろ。
 困ってる時、助けてくれないんだ。
 いつだって、一番そばにいるのは俺だ。
 でも、今、何をしてやれるだろう。
 俺は――今までのお前との友情をぶち壊すような、最低最悪のことをしかけてたのに。



 学校から駅までの帰り道、コンビニでアイスを買った。
 夕暮れに染まる店の前で、チューブ型の容器を半分に割って一つ渡すと、瑞祈は「何これ、こういうの食べるの、はじめて」と嬉しそうに口をつけた。容器を齧って、吸い付く唇から目を逸らす。
「わ……すっごく美味しい」
 新しい世界を発見したように、瑞祈が瞳を輝かせた。
 先輩には、こういう瑞祈が、どんなふうに見えているのかなと思う。
 可愛いのか、愛しいのか、眩しいのか――どの感情だって、俺は負けない。二年以上一緒にいても、瑞祈は毎日、新しく輝いて見える。
「だろー。これ、うちのちびたちも好きなんだ。やなことは、美味いもん食べて忘れようぜ」
「……うん、ありがと」
「まあ、無理して笑う必要もないけどな」
 悲しい顔が隠れるように、髪をくしゃくしゃと撫でてやる。本人が気付いているのか知らないけれど、髪に触れて嫌がらないのは――嬉しそうにしてくれるのは、俺だけだ。
「……僕、省吾と会えてよかったなぁ」
 少しずつ柔らかくなり始めたアイスを、丁寧に指で押し出しながら瑞祈が言った。あんまりそういう話はしたくない。まるで、今の関係が行き止まりみたいだから。なのに、少しでも自分について語る唇を見たくて、「なんで」と問い返してしまう。
「だって、バンドやってみようなんて発想なかったし。誘ってくれなかったら、どうしてたのかなって、時々考えるんだよね。別のことしてても、それはそれで楽しかったかもしれないけど――やっぱり、想像できないな、省吾がいない高校生活なんて」
 うん、と頷いた。何も納得なんてしてないくせに。
「……俺はさ、入学直後にお前見た時、はらはらして」
「え、どうして?」
「だって浮いてた、皆『財閥のお坊ちゃんなんだって~』ってひそひそ話しててさ。そういう空気、なんか嫌だったから」
「そっか……。僕はねえ、はじめて教室で省吾を見た時、かっこいいなぁって思ったんだよね。だから、真っ直ぐ僕のとこきて、話しかけてくれて……すごいドキドキしてた」
「……はじめて聞いた」
「だって、言ってないもん」
 いつの間にかアイスを食べ終えた瑞祈は、空になった容器をゴミ箱に捨てて俺の向かいに立つと、まだ一口分くらいしか食べていない俺のアイスをじっと見つめた。
「溶けちゃうよ、食べないの?」
「あー、……うん、……なんか、今ので、腹いっぱいかも」
 今のって? と瑞祈が笑う。
 でも俺は、多分、はじめて――一緒に、笑えなかった。
「お腹いっぱいなら、僕、もらっていい? 今度同じの奢るから」
 こういうのも、俺にだけだ。普段の瑞祈は、人のものまで欲しがったりしない。どちらかというと、分け与えるタイプで。俺は瑞祈に手渡した。何の躊躇いもなく、俺が口を付けた場所に、唇を重ねる。それが悲しかった。
「……今も、かっこいいって思ってる?」
「もちろん。すっごい自慢だよ。そうそう、一年の頃、何度か女子に、省吾に好きな子がいるか聞かれてさ。やっぱりモテるんだなぁって、自分のことみたいに嬉しくて」
「それも、はじめて聞いたんだけど……」
「そりゃ、言えないよ。思い切って僕に相談してくれたのに……。でももう時効かなって」
「なんて答えたの?」
「普通に。僕からは言えないかなって」
「ほんと、普通だ」
「うん」
 江純が再びアイスに口をつけた。黙って見守る。飲み込む喉が、上下に動く。首の、薄い皮膚。
 トイレで考えた時は、瑞祈をどうしたいのかわからなかったのに、こういう時だけはわかってしまう。
 いつか溢れそうだ。
 どうやったら閉じ込めておけるだろう。
「でも知ってた? 好きな子いるって」
 江純がぽかんと口をあけた。いつも眠そうな目をまんまるにして、俺を見る。
「うっそぉ……。だって前に、男子だけで、好きな女子の話ししてた時、省吾何も言わなかった……」
「まー……言えない相手だから」
「……秘密の恋、みたいな?」
 興味津々で、顔を覗き込んでくる。
 本当は、何もわかっていなかったのに「そういう感じ」と頷いた。
「僕と一緒だ……」
 江純が呟いた。アイスを見つめる淋しげな横顔を見て、俺は耐えきれず、落ちてきた前髪に触れて、耳にかけてやった。
 瑞祈が俺を見る。微笑みあう。時々、『できてるんじゃないか』って噂される、俺達のいつも通り。
 なあ、キスしてみていい?
 そう聞いたら、どんな顔をするかなと思った。
 想像しただけで、景色が遠く離れていく。
 瑞祈は笑って、「なんで」と聞くだろう。もしかしたら「別にいいよ」とだって、言ってくれるかもしれない。
 そのくらいじゃ俺たちは、何も変わらない。変われない。それが嬉しくて、悲しい。
「美味しかった」
 瑞祈は、俺と間接キスをした容器を、ぽいとゴミ箱にいれた。
 多分、俺たちのキスは、このくらい気楽なことだと思う。
 安っぽい香料のチョココーヒー味のキスを想像しながら、足元に置いた鞄を持って、再び並んで駅へ向かった。
「夜、いつも急に電話してごめんね。それに、遅くまで……」
「なんで? 俺は――楽しいよ。ほんと辛かったら、泊まりにきたっていい」
「ありがとう……全部、省吾のおかげだ」
「何が?」
「先輩のこと」
 大事にするだけじゃ、きっと駄目なのだ。
 俺は何も、特別な力を持っていない。どうやったって、先輩には勝てない。
 でも――こんな気持ちになると知っていても、きっと去年の俺は、先輩が音楽室で練習していることを、瑞祈に教えただろう。瑞祈に喜んでほしいから。
「俺は何もしてないよ。瑞祈が勇気出して音楽室行って、何度も通って、仲良くなれたんだろ」
「でもバンドに誘ってくれなかったら……学園祭で、出会うこともなかったから」
 俺は手を握った。多分おかしい。瑞祈は多分、一瞬俺を見た。でも、何も言わずに手を握り返してくれた。自分のためだったら、こんなことはとてもできない。傷つけるんじゃないかって、怯えてしまう。
「先輩の手の方が、大きい?」
 駅が見えてくる。離れたくなくて、そんな自分が嫌で、聞きたくないことを聞く。瑞祈は俺を見ない。俺も瑞祈を見なかった。
「……うん」
 俺は手を握り直す。
「でも、省吾のほうが、あっつい」
 黙って、キスすればよかったと思った。
 きっとこの先、何度も思う。
 いつまでこのままでいられるのかわからない。
 瑞祈の笑顔を喜べなくなったら、離れようと思った。
 何も許してくれなくていいけれど――笑っていてほしいから。
 俺が笑顔を奪うことだけは嫌だから。  



2020.12.25

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