「男子高校生、はじめての 2nd after Disc」発売記念に。第5弾の義兄弟のお話です。音声作品の副読的な感じでお読みいただけたら、と思います。
※第5弾のコミコミスタジオさん特典小冊子に登場したキャラクターが出てきます。



はたんきょう




 きらいだ――。
 母親に手を引かれて、初めて「お友達」に会った時、春惟はそう思った。
 それでも「お友達」といる間、親の前で笑顔を貫いたのは、そうすれば母親が喜んでくれて、家に帰って二人きりになっても笑顔が続くからだ。機嫌が良くなれば「またお父さんと一緒に暮らそうか」って言ってくれるかもしれない――子供心に、そんな淡い期待があった。
 でも絶対、お母さんの言うように「お友達」になんかなれない――。
 何故ならその「お友達」は無口で、稀に何かを言っても聞き取りにくくて、ろくに笑いもしないし、春惟にも、周りのことにも、何一つ興味がなさそうだった。何より恐ろしいのは、春惟の方がずっとずっと何倍も母親を好きなのに、「お友達」は何の努力もせず、あっさりと春惟の母親の注意を引きつけていることだ。春惟が欲しくてたまらない母親の笑顔も、優しさも、繋ぎたい手も全部手に入れて、そのくせ嬉しそうにするわけでもない。母親の「はるくんの方が少しだけお兄ちゃんだからね」という残酷な言葉に、春惟は必死に甘えたい気持ちを押し込めて、「お友達」に全部譲って見せる。そうしてやっと、母は春惟に笑顔を向けて、頭を撫でてくれるのだった。
 春惟には逃げ場がなかった。父親とたまにしか会えなくなってから、母親の存在は、春惟の全てだった。最近は毎週のように「お友達」と会うことになっていて、毎日が憂鬱で仕方ない。なのに今日も春惟と「お友達」は大型公園で、それぞれの親に「二人で遊んでおいで」と笑顔で、でも逆らい難い雰囲気で命令をされてしまった。春惟は全く気が進まなかったけれど、「お兄ちゃん」らしく頷き、「お友達」の手を引いて、母親の期待に応えて見せる。そして、親の視線の届かない場所まで来て、すぐに握った手を離した。
「ぐるっと、そとがわ一周して、もどろ」
 遊具の設置された広場もあったけれど、この「お友達」は春惟と同じ年のくせに、遊んではしゃいだりしない事を知っていたし、すぐに戻っても母親を困らせてしまいそうだった。返事を待たず春惟が歩きはじめると、「お友達」は案の定、無言で従って、春惟の隣を幽霊みたいに静かに歩いた。
 やっぱり嫌いだ――。
 春惟は苛々して、わざと枯葉を踏み潰した。
 何か言ってくれれば、少しは好きになれそうな気がするのに――。
 そんな春惟の希望がどこかに届いたのか、この日はいつもと違うことが起きた。目も合わせないまま、少し離れたまま、広い敷地を半周ほどした時、「お友達」が、ぽつりと呟いたのだ。
「……しってる?」
 空耳かと思いつつ「お友達」を横目に見ると、視線が絡んだ。聞き取りにくくて意味が分からなくて大嫌いなのに、少しだけ嬉しくなってしまったのは、あんまりにも退屈だったからだ。
「何が?」
「……お父さんが……」
 そこまで言って、「お友達」は言葉に詰まった。不安そうに周囲を見渡して、何かを探すようにしていたけれど、あたりは枯れ木と、芝生の敷き詰められた広大な広場と、大きな池があるだけで、注視したくなるようなものは何もない。早く言ってよ、と春惟はまた苛々したけれど、小さな声を聞き逃さないように、もう枯葉は踏まなかった。
「あのね、僕たち、」
「何?」
「兄弟になるかもって」
「……きょうだい?」
 意味が分からず、同じ言葉を繰り返す。
「何それ、なれるわけないじゃん」
「……うん」
 頷かれても、どうしようもない。春惟はもどかしくて、宙を蹴るように足を踏み出す。
「でも、僕たち、仲良くなったら、そうなるかもって」
 仲良く――その言葉に、春惟はぞっとした。それでつい、「お友達」を睨んでしまったのかもしれない。「お友達」はか細い声で、
「……ごめんね」
 と謝った。春惟はもう何も我慢せず、苛立ちを露わに言った。
「やだよ、兄弟なんて」
「……うん。……でも、」
「でも?なに?」
「……お父さん、嬉しそうだったから、……僕、いいかなって」
 さすがに「それが何」とは言えなかった。それは春惟の母親も、全く同じなのだ。
「はるくんの……お母さん、言ってなかった?」
「……知らない……」
 春惟は俯いた。
 目の前のこの「お友達」と兄弟になるって、一体どういうことなんだろう。そんなことって、あるんだろうか――。
 いつか、全てをこの「お友達」に取られてしまいそうな恐怖が押し寄せて、春惟は喉の奥を震わせた。そんな弱みを突くように、「お友達」がぽつりと呟く。
「はるくんのお母さんって、優しいよね……」
 春惟の目尻が、じわりと熱を帯びた。
 俺の、お母さんなのに。
 全部、とられちゃう――。
 こんなことになるなら、仲良くしてるように見せなければよかったのかなと思う。でもそうしたら母親は、父親がいなくなった時のまま、元気がなくて、ぐったりしていたかもしれない。
 どうすればよかったのかな――どうすればいいのかな――。
 堪えなくちゃと思ったのに涙が溢れて、春惟は慌ててパーカーの袖で涙を拭った。「お兄ちゃんだからね、」と言う母親の声が聞こえた気がして怖くなる。この「お友達」は嘘をついて、俺のことからかってるのかな、だって急に兄弟になるなんて、聞いたことないし――縋るような気持ちで隣を見ると、「お友達」はぼんやりと池の向こう側の木立を見ていた。それでやっぱり、「兄弟」の話にも、春惟にも、興味がない事がわかった。
 春惟は今すぐ母親のところに戻って抱きつきたかった。何度も目尻を拭って、嗚咽を飲み込む。避けていた筈なのに、うっかり踏んだ枯葉の音がぐしゃりと胸に響いて、春惟は小さな体を震わせた。




 慧斗はどこも見ていなかった。
 母親がいなくなってから、どこも見えなくなっていた。
 春惟は兄弟になることをわからなそうにしていたけれど、慧斗にとってそれは些細なことで、母親がいないことの方が、よっぽどわからない。春惟の母親に優しくされると、その次には、自分の母親が現れて、名前を呼んでくれそうな気がする。けれどその期待が現実になったことは一度もなかった。
 お母さんには二度と会えないんだよと父親に言われて縋って泣いて、その時はきちんと悲しかった筈なのに、けれど泣く前と泣いた後で、何も変わっていない。それからずっと、慧斗は何だかおかしい感じがしている。全部ぼやけて、味がしなくて、柔らかかったり温かかったり、そういうものを感じないのだ。何もしたくなくて、家から外にも出たくないくらいだったけれど、こうして春惟とその母親に会うようになってから、父親は家で泣かなくなった。涙を流している父の姿を実際に見たのは葬儀の日だけだったけれど、それ以降、夜一人で佇んでいる父親の後ろ姿は泣いているみたいで、慧斗はそんな父と二人きりでいる時間が怖かった。
 風が吹いて、枯れ葉が地面を流れていく。少し寒いはずなのに、慧斗はあまり感じていない。首に巻いたマフラーは、母親の編んでくれたものだ。肩に掛けてもらった時は確かに母親の匂いがしたのに、いつの間にか消えてしまった。毎日の生活の全てが思い出のような感じがして、慧斗はたまに、自分がどこに立っているのかわからなくなってしまう。
 横を離れて歩く春惟は何も言わなかったけれど、「ぜったいやだよ、兄弟なんて」と思われているのがわかって、慧斗はもう一度「ごめんね」と謝った。
 春惟を困らせている原因は自分だということも、慧斗は分かっている。春惟とは、元々の傾向が――興味のあることも、好きな食べ物も、好きな色も、歩く早さも、何もかもが違った。だから今も慧斗は、春惟のペースに合わせて少し早歩きをしていたし、どうして枯葉を踏みつけて怖い音を立てながら歩く事ができるのかもわからない。ただ、春惟は突っ慳貪ながらも、慧斗に関わる時はいつも「大丈夫かな」と確認するように顔を覗いてきたし、握ってくる手のひらにはどこか優しさが滲んでいて、だから慧斗は、一緒に遊ぶ気分になれないことを、いつも申し訳なく思ってしまうのだった。
 何も言わない春惟を不思議に思って横目に覗くと、泣いているようだった。もしかしたら自分のせいかもしれない、そう思って慧斗は、そっと唇を開く。
「……大丈夫?」
 春惟は返事をせず、歩きながら少しずつ涙を止めて、それからずっと正面を睨むようにしていた。公園を一周して、親の元へ戻る時、春惟は再び泣きそうな顔をして慧斗を見る。「友達みたいにする?ほんとに?」と聞かれているのが分かって、嫌だったら無理しなくていいのに、と慧斗は思う。返事をしなくても、次の瞬間、慧斗の手は春惟に握られていた。お互いを拒絶しあうように、二人の指先は冷たく乾いている。春惟はもう笑顔を作っていたが、近くにいた慧斗には、泣いた跡がはっきりと見えた。お母さん――そう言いながら春惟が駆け出す。慧斗は沼の中を走っているみたいに足が重たくて、何度も転びそうになりながら必死について行った。
 この友達とはとてもずっと一緒にはいられなさそうだと思ったのに、それからしばらくして、二人は本当に「兄弟」になった。とは言え、学校に通いはじめて、住む場所が変わり、一緒に暮らす人が増えただけで、他に変化はなかった。慧斗は求められる事を淡々とこなし、春惟も相変わらず、親の前では慧斗の手を握って楽しそうに振る舞う。当初こそ子どもたちに注意を払っていた両親も、徐々に心配をすることはなくなった。
 だから、どうしてその日、慧斗が自分に直面したのかは分からない。
 いつも通りに、学校から帰ろうとしたのだ。
 帰りの時間が同じ時は、昇降口で春惟と待ち合わせをして、一緒に帰ることになっている。それは新しい母親との約束だった。
 けいちゃんは、まだこのあたりの事詳しくないでしょう?はるくん、色々教えてあげて、ちゃんと弟を連れて帰ってきてね――そう言われた時、春惟の顔が一瞬陰ったのを、慧斗は覚えている。
 慧斗は、たとえ自分の「お母さん」とは違う人でも、同じ「お母さん」なら、絶対に約束を守りたかった。でもその日は、どうしても春惟の顔を見たくなくて、一緒に帰りたくなくて、何かがひっかかって、嫌で嫌でたまらなくて、でも何が嫌なのかわからない。春惟の手に絶対に触りたくないと思ったし、新しい家の匂いを嗅ぎたくなかったし、二番目の母親にお帰りと優しく言われるのも絶対に嫌だった。
 ――全部――全部嘘だ。
 だって僕の――お母さんは――。
 全てを拒絶したくなりながら教室を出て、それでも無理矢理待ち合わせ場所へ向かって廊下を歩き続けると、俄にぼた、と涙が零れた。
 嘘つき、みんな嘘、「お母さん」も「お兄ちゃん」も――お父さんだって……僕を置いて……僕は……。
 僕は、どこにいるんだろう――。
 廊下がぐらぐら波打って、揺れている。自分のいる場所を――母親のいる場所を探さないといけなかった。だから慧斗は廊下を戻った。なのにどんなに走っても見つけられない気がする。飛び込んで、失えば、会えるような気がしたけれど、どこに飛び込む場所があるのかわからない。知ってたらとっくにそうしていた。「わからない」が溢れて、走り続けるリノリウムに滴る。普段あまり使われていない階段を下って、辿り着いたのは校舎の裏門だった。学校の裏手はまばらに草木が茂って、薄暗く湿っている。熱い息を殺して、慧斗は空気に紛れるように歩を緩め、敷地の外周に接している体育館裏に身を屈めた。
 僕は、いない――どこにも――。
 じんじんと指先を擽る血流が、抑えこもうとしても荒くなる呼吸が、失ったものを慧斗に教えてくれる。胸の捩れるような嗚咽が尽きることなく喉から漏れ出て、慧斗は初めて自分の傷を知った。




 校舎がしんと静まり返るまで、春惟はずっと慧斗を待っていた。あまりにも遅いから探しに行こうか迷ったけれど、その間に慧斗が現れたらどうしようと思って、その場を離れられなかったのだ。
 相変わらず一緒にいてもつまらなそうにしてるし、きっと、先に帰ったんだ――。
 待ちくたびれて、頭の中がぼんやりしたまま家に帰ると、休職中の母親に「こんな遅い時間に帰ってきて――けいちゃんはどうしたの――置いてきたの!?」と驚かれて、休む間もなく通学路を探しまわる羽目になった。日が暮れる直前、一人で帰ってきた慧斗を、母親は泣きながら抱き締めた。母と弟の姿をぼんやりと眺めながら、春惟はくたびれた体を慰めるように「もう俺はあんなふうに抱きしめてもらえない、お兄ちゃんだから、全部慧斗のだから、」と何度も唱える。そうでもしないと、いつだって春惟は泣いてしまいそうだった。「お友達」が現れてから、「弟」が出来てから、春惟は諦める事がどんどん上手くなっていた。
 実際、春惟の母親は、慧斗を贔屓していたわけではなかったし、そうならないように細心の注意を払っていた。それでも春惟が自棄になってしまったのは、それまで全てを独り占めすることが当然だった春惟にとって、「好きなものを分け合う」という事をなかなか理解出来なかったからだ。勿論、慧斗の父親も春惟を愛したけれど、本当の父親よりも父親らしく振る舞われて、春惟は二人の父親の間で、動揺することしか出来なかった。
 慧斗が「ずっと学校にいた」と説明したせいで、春惟は母親に「二度と置いてきちゃだめよ」と約束させられた。春惟はその理不尽をどうしても消化することが出来なくて、子供部屋で慧斗と二人きりになるなり、「何で来なかったの」と責める形で感情をぶつけてしまった。
「……ごめんね……」
 いつも以上に曖昧な慧斗の視線は、いつも通りどこか遠くを見ていて、春惟もいつも通りに苛々してくる。
 慧斗が現れなかったのも、くたくたなのに探さなくちゃいけなかったのも、慧斗が母親の気を引いているのも、全てが理不尽で、目の前の「弟」が憎くてたまらない。でもそんなふうに嫌っている自分も苦しくて、春惟はぎゅっと拳を握りしめた。
「俺、ずっと待ってたのに……慧斗のせいで、俺が悪いみたい!」
 そんなふうに怒鳴ったのは初めてだった。
 どうせこの弟は、何を言ったって、人形みたいに何も言わない、言えないんだから――。
 そんな、意地の悪いことまで思ってしまう。
 怯えたように慧斗に見上げられて、鳶色がかった瞳と、真っ直ぐに視線があった。春惟と全く同じ瞳の色は兄弟の証みたいで、見下した気持ちを見透かされているような気がして――春惟は怖くなる。慧斗はまるで春惟を悪者に仕立てあげようとするかのように、目尻に少しずつ涙を溜めて、ぽた、ぽた、と左右の瞳から順に、一粒ずつ滴らせた。それは作り事みたいに綺麗で、春惟はそれ以上弟の顔を見ていられなかった。
 母親だけでなくて、泣きたい気持ちまで先に取られてしまった気がして、春惟は瞳を潤ませながら立ち尽くす。
 お兄ちゃんて、何でこんなに辛いの?
 同じ年なのに、何で俺がお兄ちゃんなの?
 お父さんがいなくならなければ、こんなことになってなかったの?
 もっとお父さんとお母さんが仲良くなるように頑張ればよかったの――?
 答えてくれる人はどこにもいなかった。慧斗の微かな嗚咽がしんとした部屋に響いて、それは春惟のせいで、きっと母親が現れたら、抱きしめてもらえるのは、先に泣き出した慧斗の方に違いなかった。
 お兄ちゃんになんて、なりたくなかったのに。
 弟なんて、いらなかったのに――。
 目尻に溜まった涙がこぼれないように必死に耐えていると、涙に濡れて、か細く震えた声が、春惟を呼んだ。
「……はるくん……行けなくて、ごめんね、」
 何を言ったって、どうせ謝るだけなんだろうと分かっていた。だから予想外の言葉ではない。なのに背筋がぞくりとしたのは、それが嘘みたいに弱々しい声で、本当に目の前に慧斗がいるのか、一瞬分からなくなったからだ。
 違う――慧斗じゃない――。
 姿形は同じなのに、どうしてそう思ったのかはわからない。俯いた目尻に光る涙がおいしそうで、それが頰を滑り落ちて床に滴る度、割れて壊れてしまったような気がして息苦しくなる。見ているのが怖いのに、こんなに可哀想な子だったっけ、と慧斗の顔を観察するのがやめられない。
 責めたことを謝らなくてはいけない気がして、春惟が口を開きかけた時、母が大きな声で二人を呼んだ。夕食の合図だ。慧斗は手の甲で目尻を拭って、春惟がおいしそうだと思った涙をぐちゃぐちゃにした。泣いているのを親に知られたくないのは、どうやら春惟と同じらしい。けれど、慧斗はそれ以上動かず、じっと俯いていた。
「ごはん……いこ」
 謝る機会を失って、でもせめてお兄ちゃんらしく声をかけてみると、慧斗の肩が小さく揺れて、再び泣きそうに顔を歪ませる。やっぱりそれは、春惟の知っている慧斗ではなかったけれど、いつも通り、手を握ってみようとした。なのに慧斗は、自分の後ろにさっと両手を隠して、一瞬だけ上目遣いでちらりと春惟を見上げると、逃げるように部屋を出て行った。取り残された春惟は、暫くの間動揺し続けていた。
 やっぱり、慧斗じゃない――。
 泣き顔も、怯えたようにするのも、春惟の手を無視するのも、全てが初めてのことだった。なのに翌朝、春惟の隣に並んで歯を磨いている慧斗はいつも通り何も興味のない顔をして、春惟の言葉には何でも従った。それで春惟は、昨夜どうして別人だと思ったのか、本当にそんなふうに思ったのかすらわからなくなってしまった。
 だからその日の下校時刻、慧斗が現れなかった時、春惟はまた、胸の中で慧斗を責めた。
 ごめんねって謝ったくせに――。
 腹立たしくて、また置いて帰りたかったけれど、弟を抱きしめている母親を見るのは嫌で、春惟は仕方なく学校中を探し回った。人気のない裏門まで確認して、肩を落とす。やっぱり帰ってしまおうかと思いながら引き返そうとした時、体育館裏に繋がっている狭い小径に気付く。いるわけないと思いつつ、春惟は大好きな母親のために、足を踏み入れた。そして慧斗はそこにいた。
 顔を上げて春惟を見あげてくる、その頬は濡れていた。壁を背にして蹲っている体が、いつもより一際小さく縮んでいるように見えて、春惟はこくりと唾を飲み込む。春惟はすぐに、これが
 昨夜の慧斗だ――。
 ということが分かった。
「……まってたのに」
 緊張した春惟の声は、小さく掠れている。慧斗は再び立てた膝と胸の間に顔を埋めて、もう何度目かの「ごめんね」を伝えてきた。そしてそのまま、動かなくなってしまった。
 名前を呼ぶに呼べなくて、春惟は離れた場所で立ち尽くしていた。背負っていた鞄の重さが辛くなってきて、できるだけ音を立てないように、そっと足元に下ろす。今まで、強引に手を引いてきたのが嘘みたいに、話しかけるのが、近づくのが、触れるのが怖かった。不用意にそんなことをしたら、昨日見た涙みたいに、慧斗そのものが割れて壊れてしまいそうだ。
「――はるくん、」
 俯いたままの声は、氷の上を引っ掻いているみたいに寂しくて、春惟は耳を塞ぎたくなる。
 何も言わなくていいよ――。
 伝えたい想いが喉の奥で燃料のように働いて、春惟は慧斗に近付いた。触れようとした瞬間、気配を察したのか、震えながら体を引かれて、それは昨夜、春惟の手を避けたのと全く同じ仕草で、春惟は昨夜の自分が傷ついていた事を知る。
 いつでも触れて、思い通りになると思っていた。「弟」という新しい名前がついてからは、一層そんな気がしていた。でも自分のものではなかったのだと、春惟は初めて気がついた。
「……ごめん、かえろ、」
 顔を上げて、更に身を引くように春惟から距離を取った慧斗は、また昨夜と同じ仕草で、濡れた顔を拭ってそう言った。
「……駄目だよ、何で泣いてるの、」
 やっと伝えた春惟の言葉を無視して、慧斗はのろのろと立ち上がろうとする。春惟は腹が立った。今までみたいに、俺の思い通りになってよ、と横暴な思いが顔を覗かせる。恐れを振りきって、ぐっと腕を掴むと、慧斗は驚いて春惟を見た。涙に怯みそうになりながら、春惟は真っ直ぐ見つめ返す。
「はなしてよ――触るな、」
 慧斗が、怒ってる――。
 驚きよりも感動が勝って、春惟は気持ちのまま、両腕でぎゅっと慧斗の体を包み込んだ。このまま泣いてくれたら可愛いと思えそうなのに、慧斗は春惟から逃げようともがきはじめて、春惟もむきになってくる。
「っやだ、」
「泣いてたらこうするって」
「何、?」
「俺のお父さんが、」
 何に惹きつけられたのか、慧斗はぴたりと動きを止めた。何も言わずに春惟の肩口に顎を乗せて、じっとしている。鼻の奥でひっかかったような呼吸の音が、春惟の耳元でずっと続いていた。弱々しく身動いだ慧斗は暖かくて、自分と同じように生きてることがわかって、春惟はほっとした。もっと感じ取りたくて、少しずつ両腕に力を込めて、体を密着させてみる。
「お父さん、いるの?」
 温かくて湿った吐息が、春惟の耳のふちに触れた。今はそんなことどうだっていいのに、と春惟は思う。
「たまに会うよ、また今度、会う約束してる、」
 返事はなかった。泣いてくれたらいいのに、と春惟は期待していた。泣いている理由はわからなくても、何も反応しない無関係な慧斗より、ずっとずっと良い。慰めることが出来るし、涙を拭いてあげることもできる。でも興味のない顔をされたら、春惟は手を握って、玩具みたいに引っ張りまわすか、無視するくらいしかできなくなってしまうのだ。あんなにつまらない慧斗は、もう嫌だった。
 春惟の期待に応えるように、慧斗の体が少しずつ震え始めて、春惟はどきどきしながら背中をゆっくり擦ってやる。
「はるくん……くるしい、」
 噦り上げながら喋る声が、春惟を喜ばせた。少しだけ腕の力を弱めると、慧斗がほっと息を吐いて、そんな反応すら自分が与えたものだと思うと体が温かくなってくる。
「服、濡れちゃう、涙で、」
「……いいよ、」
 お兄ちゃんらしくそんなふうに言ってみると、それはやっぱり気分が良かった。
「……はるでいいよ、」
 お兄ちゃんでいいよとは、まだ少しだけ怖くて、言えなかった。
 慧斗がひゅ、と息を吸った音が、春惟の耳の奥に居座って離れない。触れ合った場所が心地良くて、いつまでもこうしていたいと思う。母親に撫でてもらうのを――いつ与えてもらえるのか分からないものを待って寂しい思いをしているよりも、可哀想な弟を抱きしめている方が、ずっとずっとよかった。
「――は、る――」
 可哀想な声は、もう怖くない。それは春惟の飢えてひび割れた心を満たしてくれて、春惟は初めて、自分の痛みが許された気がしてほっとした。




 ざ、と乾いた音を立てながら筆を滑らせて、慧斗は湿った記憶を拭った。
 画布と向い合って無心になっていた筈なのに、いつの間にか滑りこんでくる思い出は、痛くて痒くてかさぶたのようで、一度毟り始めたら取り返しがつかなくなると知っている。「思い出」という綺麗で安全そうな名前すら、実は自分への誤魔化しにすぎなくて、本当のところその意味は、「春惟」という一人の家族のことだった。誰にも会いたくなかったあの日、春惟に触られるなんて絶対に嫌だったのに、どうして縋り付いてしまったのかといえば、誰かに触れていないと、どこにも戻れなくなってしまいそうだったからだ。母親を失った悲嘆は時間の経過と共に和らいだけれど、それを支えてくれた義兄の温かさと柔らかさは、今も生々しく慧斗の記憶に刻み込まれていて、消えることがない。
 だから、思い出に触れてはいけない――。
 呼吸と共に考えを止めて、慧斗はいつも自分を戒める。
 白い紙の上に面を、陰を重ねて、光を作っていく。綺麗な仕事をしているつもりで、光を支える陰にはどうしようもない自分の欲望が滲んでいる気がして溜息を吐く。筆を握った手を止めると、背後でがらがらと滑りの悪い音を立てて、ドアが開いた。
「……わ、五月女くん早っ。一番乗りだと思ったのにぃ」
 部室に入ってきた女子――小林理沙は、慧斗と同じく、美術部に所属する一年生だ。彼女とは中学の頃からの付き合いで、中学三年の終わりに、告白をされた。応えることは出来なかったが、今でも自然に会話が出来るのは、偏に彼女の変わらない笑顔と明るさのお陰だ。
 入り口近くの作業台に鞄を置くと、小林はぱたぱたと慧斗に駆け寄ってきて、後ろから未完成の絵を覗き込む。「ふーん」と「んー」の間のような器用な音を出して、でも絵については何も言わなかった。彼女は完成するまで、人の絵に対して何か言うことはない。慧斗は彼女のそんなところに好感を抱いていた。
「っていうか、匂いがやばい、ちゃんと換気しようよ」
「前にオイルの匂い、癖になるって言ってなかった?」
「言ったかも」
 慧斗が肩を竦めると、小林が笑った。一瞬、推し量るような空気が流れて、気まずいような、何か特別なことが起こりそうな予感が漂う。それは、二人きりの時、何度もあったことだった。
「……私さー、」
 小林が、身を守るように、くるりと視線を天井に向けた。
「告られたんだよねー」
「……誰に?」
「えっとぉ……まぁ、それは?まだ秘密?」
「秘密なのに、話していいの?」
「だぁって……」
 暫くの間があった。
「じゃないと、あんま、良くない気がするし、」
「良くないって?」
「諦めらんないじゃん」
 言っても良さそうなことを渋って、言いにくそうなことをさらっと言う、彼女のそんなアンバランスな所も、慧斗には魅力的に映る。
「まあ、そういうことです」
 満足気に頷く小林を見て、慧斗は笑う。
「分からないよ、それじゃ」
「分かるでしょー」
「その人と――」
 次の言葉は、はじめから頭の中にあった。けれど口に乗せるのに、少しだけ勇気が必要だった。春惟を知らなければ、もしかしたら、彼女を好きになっていたかもしれない――そんな想像をすることが、時々あった。だから口にしたら、今とは別の自分が、今度こそ完璧に失恋してしまうような錯覚がある。
「……付き合いはじめたってこと?」
「分かってるじゃん!」
 笑顔でばしっと慧斗の肩を叩いて、それから小林は少し困ったような顔をした。
「こういうのも良くないのかな……これからは」
「……どうだろう、」
 それ以上に親密なことを平気でしてくる兄を、慧斗は思い浮かべる。それは男同士で、家族で、兄弟だからで、小林とは全く条件が違う。だからいつまで経っても、気持ちに区切りがつけられないのだ。
 いつも、何か決定的な事が起きればいいのに、そうしたら諦められるのにと、慧斗はどこかで期待していた。けれどそんなものはとっくに起きているのだった。春惟は自分の恋人を何人も慧斗に紹介した。愚痴を聞いて悩みを聞いて惚気を聞いて、どうすればいいと思う、どんな服がいいと思う、何を喜ぶと思う、どこに行けばいいと思うと相談されて、デートへ出かけるのを見送って、付き合い始めたのっていつだっけ?と聞かれて、挙句の果てには、隣室からぼんやりと漏れる特別な声を聞かされて――それが決定的なことでなくて、何なのだろう。
「あ。換気、換気」
 不器用な会話を切り上げて、小林は窓を開けた。さりげない仕草で外を見下ろし、呟かれた言葉に、慧斗は息を止める。
「あれ、お兄さんじゃない?」
 まさか、そんなことあるわけがない。兄の春惟は部活があるはずで、美術室は学校の裏手に面していて、どうしてそんな人気のない場所をうろつく理由があるのだろう――そう思いながらも、慧斗は立ち上がって窓際へ歩いていた。夏の予感をほんのりと含む、生ぬるい風に頬を撫でられて、階下を見下ろす直前、身を守るようにネクタイの結び目に指先を這わせる。
「違うかな?真上からだと、よく見えない……」
 小林が慧斗の肩に顔を近付けて、ひそひそと囁いた。付き合いの長さと比例した、親密な、けれど媚びのない彼女の仕草は、いつも慧斗にこそばゆい緊張をもたらす。目を細めて、慧斗は明るい毛色の、癖のある旋毛を確認した。その向かいには、当然のように女子の姿があって、充分に予期していたくせに、慧斗の胸は律儀に痛む。声を落としているのか、二人の会話は聞こえてこない。
「……そうだよ。うちの。紹介したっけ?」
「んー、前に……あ、そうそう、旅行の写真、色々見せてもらった時だ。一緒に写ってたでしょ。なんでこんなイケメンに抱きつかれてんの!?って言ったら、お兄さんだって」
「……ああ、」
 いつかの夏の、家族旅行を思い出す。「海を背景に、二人の写真撮ってあげる」と母が言うと、兄の春惟はすかさず後ろから慧斗を抱き竦めた。暑苦しい、離せと言うと耳元で笑われて、潮の匂いがして、耳に触れた柔らかい髪が擽ったくて――それが良い思い出なのか、慧斗は今も分からない。
「写真だとイケメンなのにさぁ、五月女先輩の事好きな友達、いっつも「超可愛い」って溜息吐くんだよね。何でだろ?実際会うと、写真とは違う?」
「見た目の事?顔は別に……普通だと思うけど」
「うっわ、贅沢……それ絶対麻痺してるよ」
「麻痺?」
「自分がそれで、お兄さんがあれじゃあ……」
 呆れたようにわからないことを言われて、慧斗は首を傾げる。小林は目を細めて慧斗を軽く睨むようにすると、諦めたように再び窓の下を見下ろした。
「一緒にいるのって、彼女さんかな?」
「……さあ」
 遠目に見ても、ついこの間、家の廊下で遭遇した女の子とは違うことが分かった。もしかしたら、もう別の子と付き合っているのかもしれない。慧斗が静かに溜息を吐くのと同時に、階下の彼女は慣れた様子で、春惟の首に両腕を巻きつけた。
「うわ……おわあ……キスしてるぅ……うわあ、うわあ……長……」
 囁いた小林は顔を赤らめて、手のひらで口元を覆った。視線は、眼下の光景に集中している。春惟が彼女の腰に両手を回して、暫くその状態が続いていた。慧斗の口の中が乾燥して、嫌な味がしはじめる。こんなことは数えきれないほどしてきたのだと知っている。けれど実際に目にするのは想像以上に堪えた。平気な顔をしていられるのは、冷静に考える事ができるのは、隣に小林がいてくれたお陰だった。これがずっと望んできた「決定的なこと」だろうかと考えてみる。だから慧斗は目を逸らさずに、見下ろし続けた。指先が冷えていることに気付いた時、二人はようやく体を離す。それから秘密を共有するような笑い声が聞こえた。それはついこの間隣室の壁ごしに聞こえた春惟の声と寸分違わなかった。
「……あ、行っちゃう。さすがに移動するのかな。いや、ってか、何?移動って。もっとすごいことするわけ?」
 興奮しているのか、小林は早口で、一人で会話をしている。小林の言う通り、彼女は春惟の手を取って、春惟を振り向きながら、後ずさるように誘っている。春惟は首を傾げながらも、抵抗するでもなく、彼女に付き従っていた。
 その先が体育館の裏手だと気付いた時――慧斗は、今が思い出を捨てる時なのだと分かった。
 それから、諦めというのは、落胆ではなくて、安堵を生むものなのだということを知る。
 春惟は、何も覚えてない――。
 想いを抱えつつ、無理に蓋をしようとしていたのが、そもそもの間違いだった。きちんと取り出して、認めて、諦めようと努力した方が、ずっと自然で、楽だったのかもしれない。怯えて、つれない態度で距離なんて置かずに、いい加減な付き合いなんてやめろ、そんなのは見たくないと、正直に言っていればよかったのだ。
 慧斗は不思議とほっとして、唇の形で微笑むことさえ出来た。動揺しているのに、周囲の静けさが深く感覚に染み入ってきて心地良い。
「ちょっと……行ってくる」
 無粋な自分を、今日だけは許そうと慧斗は思う。諦めの手始めに、兄の顔を見て、素直に少しだけ、喧嘩をしたかった。
「何?どこに?」
「下」
 窓に背を向けて、慧斗は歩きだす。 
「え?ええ?何で?邪魔しちゃ悪いよぉ……」
「いい加減、腹立ってるから。部活サボって、ああいうことばっかしてるの」
「あー……もしかして、噂ってほんと?告ったら、振られる事ほとんどないって」
 慧斗は、何も言えずに苦笑を返した。いつでも明るい、変わらない彼女に感謝しながら、教室を出る。人気の無い階段は、幼い日、泣きながら駆け下りた時と同じ空気が充満している。ゆっくり下りながら、兄を、春惟を――「はる」を思い浮かべた。それは子どもの頃の姿だった。ありのままの想いを伝えられる姿だ。優しくしてくれたから、優しいことを返したくなる姿でもあった。でももうその気持ちも、終わりにしたい。慧斗は音にせず、唇の形で、素直に伝えた。
 好きだよ――。
 ずっと好きだった――。
 絶対に言わない――。
 誰にも言わない――。
 はるを好きだった――。
 ずっと好きだった――。
 一階に降り立って、慧斗は口を噤んだ。年相応の、弟の顔をして校舎を出る。どうやって春惟と喋るのかも分かっているし、ぎこちないことなんて何もない。諦める為に会いに行くなんておかしい気がして、慧斗は静かに微笑んだ。



2016.12.31

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