3rdアフターディスク発売記念に。 コミコミスタジオ特典SS後の内容です。 休日の日中。美容師を目指して学校に通っている柿谷に髪を切ってもらった江純瑞祈は、上機嫌でマンションに戻った。 部屋の主――八雲譲は、リビングのソファで気怠げにスマホを操作しながら、「お帰り」と素っ気なく告げた。おそらく仕事用の画像や動画を編集しているのだろう。 「お帰りなさいませ、もう少しで昼食の準備が整いますので」 オープンキッチンでは、江純家の使用人、『ハルカさん』が忙しなく働いていた。彼女は江純が高校に上がる前にに実家で雇われた妙齢の美人で、週に一日、マンションの家事を手伝いに来てくれている。今は一週間分の食事を作り置きしてくれているらしく、和洋中の混ざりあった香りに、江純は食欲を掻き立てられた。 習慣になっている恋人への挨拶のキスを自重して、手を洗いにバスルームへ向かい、ドアを開ける――平和な日常は、そこまでだった。 「ひぃっ……し……死んでる……」 目の前に、無残に濡れた死体――実家から一頭だけ連れてきたクマローのぬいぐるみがあった。それも、洗濯ばさみで体を摘まれて、宙吊りにされている。 慌てて救出して形を整えたが、水を吸った綿が重しになっていたのだろう、全身がいびつに変形している。その上、摘まれていた耳や爪は跡が残って、生地が伸びていた。 「どうして……どうしてこんな……」 いつもソファに座らせているのに、さっき先輩の隣にいなかったことに、どうしてすぐ気付かなかったのだろう。まさかこんな拷問を受けて、放置されていたなんて――。 ハルカさんは、江純がこのぬいぐるみをどんなに大切にしているか知っている。 だから犯人は――。 江純は手を洗うのも忘れてリビングに駆け戻り、クマローを突きつけて八雲に詰め寄った。 「どうしてこんな残酷なことしたんです!?」 「ん……お。乾きはじめたら色戻って、結構綺麗になってんじゃん」 「っ、触らないでっ!」 さっと半乾きのクマローを胸に抱いて、一歩下がる。染み出た水分で服が濡れて、ちょっと気持ちがわるかった。 「何怒ってんだよ。草臥れててきったなかったから、こっそり買い替えて驚かせてやろうと思ったけど、同じやつもう生産終了してたから、」 「きっ……汚い? 買い替え……!?」 江純は改めてクマローを見つめた。確かに、くすみが消えて、生き生きとして見える。いつも使っている石鹸の香りまでする。でもそれは『今までのクマロー』ではなかった。 「う……うぅう……」 へなへなとラグの上に座り込んで涙目になると、八雲が困ったように見下ろした。 「……わ、悪い、喜ぶかと思って……でも別に何も変わってないだろ……破けたわけでもないし……」 「ひどい、ひどいです、全然違います。何も吊り下げなくたって。耳が……耳が伸びちゃってます。もうクマじゃない……別の生き物です……狐か、犬みたい……」 「バスタオルに水吸わせたけど全然乾かないから……」 「こんな歪んで……」 「いや元々ブサイクだし歪……」 江純が潤んだ目で睨むと、八雲は目を逸らし、咳払いした。 「ずっと、大切にしていらっしゃいましたものね」 ダイニングテーブルに昼食を整えつつ二人を見守っていたハルカさんが、クマローの様子を見に来た。 「多少は整形できると思いますよ。伸びた生地は戻らないかもしれませんが――このまま乾かしましょう」 そう言って江純からクマローを預かると、優しく形を整え、ソファの定位置にタオルを敷いて座らせた。それから二人の仲を取り持つように作りたての昼食を勧めると、寝室や他の部屋の掃除のため、リビングを退室した。いつもより若干気まずい食事を終え、仕事を終えたハルカさんを見送る。八雲が練習室にこもってしまう前に、江純はぬいぐるみについての思い出を語ろうとした。悲しみは消えないけれど、彼だって善意でしてくれたことなのだ。「先輩、実は、」と呼びかけた瞬間、八雲が、 「あっ!!」 と叫んで、寝室へと走っていった。何事かと江純が後を追うと、部屋の奥、ベッドの向こう側――ゴミ箱の前で、呆然と立ち尽くしていた。 「……終わった……」 「……? どうしたんです?」 「ゴム。昨夜ここ、投げ捨てたまんま寝た」 「……え?」 「回収されてる、ゴミ全部」 八雲の顔から、血の気が引いている。 「でも……気付いたとは限らないんじゃ、」 「んなわけないだろ! 昨夜いくつ使ったと思ってんだ!」 激しい剣幕に、江純は身体を竦ませる。健気に指を折って数えはじめたが、薬指を曲げたところで記憶が断片的になった。コンドームを付け替えるわずかな待ち時間に焦れて、その都度「はやく」と懇願した事しか思い出せない。でもシーツを汚した記憶はないし、今朝は腹痛も発熱もなかったから、最後までつけてくれていたのは確かだ。 「今朝ベッド離した時に、何で気付かなかったんだ……くそ、やっぱ同居前に俺たちのこと言っとくべきだっただろ、マジで消される」 「消されるって……マフィアじゃないんですから。それに僕達のことは言う必要ないですってば。わざわざ波風立てる必要、……、?」 説き伏せようとした時、江純はナイトテーブルの上に、見慣れないディスペンサーボトルを見つけた。 「先輩、こんなの買いました? 昨夜、ありましたっけ?」 「知らない、何だそれ」 「えっと、オーガニック……ゼリー、ローショ……」 ラベルの英字を辿って、江純は赤面する。 「夜、使うものみたいですけど」 「何でんなもんが……」 八雲が歩み寄って、ナイトテーブルの引き出しを開けた。 「げっ」 「わあ。いろんな色の箱、きれい――全部避妊具です?」 「俺じゃない。つーか、昨夜はほとんど空に近かったから、買い足さなきゃって思ってた」 「……じゃあ、これ、ハルカさんが?」 「確実にバレてる」 「僕か先輩に、恋人がいるって思った可能性も」 「寝室同じなのに? こんなボトル、俺もお前も見える場所に置くか? ゴムだって全部同じ」 「同じ? 色々ありますけど……」 「ラージだろ」 「? 大きさがあるんです?」 「太さとか形とかつけ心地とか、個人差あるし」 「あ……そっか。僕と先輩も、見た感じ、全然違いますもんね」 「とにかく。今日ハルカさんは買い出し全部済ませてからここ来て、料理中も掃除中も一度も外出てない。てことは少なくとも先週の時点でこれが必要ってわかってた」 「そ、そうですね……」 八雲の横顔から深刻さが伝わってきて、江純はこくん、と喉を鳴らす。でも不安はなかった。 「だとしても……ハルカさんは、絶対に告げ口したりしません。じゃなかったら僕だって、もっと気をつけてますし。実際この一週間、僕の親から、何も連絡ないじゃないですか」 「ああ、まあ――そう……そうか……そうだよな」 「この間、シャンプーとか石鹸まで補充してくれてましたし、それと同じですよ。すっごく真面目だから」 「いや違うだろ」 突っ込みと同時に来客を告げるチャイムが鳴って、二人は顔を見合わせる。江純がドアホンに出ると、客人は、八雲の姉だった。 「瑞祈くん久しぶり〜、休みの日に押しかけてごめんね。紅茶が二缶で二割引だったから、一つどうかなって」 玄関に迎え入れるなり、彼女は八雲と江純に挨拶する間を与えず、一息にそう言った。看護師の彼女は、夜勤明けだと妙にテンションが高い。手に持った荷物からして、退勤後にショッピングを楽しんだようだ。 二人が共に暮らし始めてからたびたび土産物を片手にマンションを訪ねてくる彼女は、今やすっかり江純と仲良くなっていた。 「わあ、嬉しいです」 「割引とかわざわざ言うなよ……」 「先輩、節約は大事ですよ」 グランドピアノの購入という夢が散った今もアルバイトと節約を続けている江純は、八雲を睨んだ。 「ほら譲、あんただけよ〜素直じゃないの。そうそう、あとこれも」 「お、この店好き」 和菓子店の紙袋を受け取って中を覗いた八雲を横目に、江純はスリッパを並べる。 「よかったら上がっていってください」 「ありがとう。でも実は、そこでハルカさんに会ってね、これから休憩だっていうから、一緒にランチするんだ。先にお店入って待ってくれてて」 「いつの間に仲良くなってんだ……」 八雲が顔をしかめると、 「この間お邪魔した時、ハルカさんもいて、一緒に帰ったでしょ。その時同じ年ってわかって、意気投合っていうか――そういうわけだから、またね!」 と、嵐のように去っていった――と同時に、二度目のチャイムが響いた。再び江純がドアホンに出る。モニタに映っていたのは、江純が午前中に会ってきたばかりの友人、柿谷省吾だった。途端に八雲の機嫌が悪くなり、八つ当たりするように和菓子の紙包みをばりばりと剥がしはじめた。 どうやら八雲と柿谷は相性が悪いらしいと江純が気付いたのは、わりと最近のことだ。だから「忘れ物、届けてくれたみたいです」と言い訳のように言って、一人で玄関に戻った。 「まじで気付いてない? 普通忘れないだろー、これ」 柿谷は悪戯っぽく笑って、江純にスマホを手渡した。感謝を伝えつつ、けれど不機嫌な八雲を思い出すと、「家に上がっていって」とも言えない。柿谷もわかっているのか、「妹と弟留守番させてるから、すぐ戻らないと」と江純を安心させるように微笑んだ。 「ルームシェア、うまくいってる?」 「うん。先輩、優しいから――喧嘩もしないし、新鮮で楽しいよ」 「お前、まだ何も知らない時から、優しそうな人って言ってたもんな」 からかうように笑った柿谷に、江純はわずかな胸の痛みを覚えて俯いた。 柿谷には八雲のことを、「友達として親しくなった」としか伝えていない。でも時々、全部気付かれているような気がするのだ。あえて、知らないふりをしてくれているような。 「年末のライブ頑張ろうな。もうちょいあわせて練習しとかないと」 「うん――」 不意に、柿谷の目が真剣になった。江純よりわずかに長い、いつもギターの弦を弾いている指が顔に近付いて――前髪をすくいあげてくる。そのまま耳にかけてくる仕草は、八雲が顔を見たがる時にするのとそっくりで、キスを連想するのに充分だった。乾いた指先が耳に触れた瞬間、びりびりと皮膚に刺激が走って、江純は息を止める。 「瑞祈、これ……」 囁かれた声に愛撫を連想して、江純はやめて、と言いかけた。 でもそんなことを言ったら全てが終わってしまう気がする。 「全てが終わる」――その台詞はいつだか聞いたことがある。放課後、高校の教室で。 「男の人を好きになったらどうする?」と聞いた江純に対して、柿谷は「もし俺が瑞祈を好きだったら、卒業するまで言わないかな、仲良くしたいし」と答えてくれた。もしそれが本心だとしたら彼にそんなチャンスはなかった。卒業前の冬に、江純は八雲への恋を彼に相談したのだから。 「ごめん、前髪、やっぱり少し失敗したかも、」 「あ――」 過剰な自意識に気付いて、顔が熱くなった。 抱き合うのも手を握るのも撫でたり触ったりするのも支え合うのも、ステージの上で恋人のように仲良くしてみせるのも出会った時からの日常なのに、どうしてこんな失礼な事を考えていたのだろう。 「そんなことない――ま、またお願いしてもいい?」 「てかこっちが頼む側。んじゃ来週、スタジオでな」 「うん、届けてくれてありがとう」 玄関のドアが閉まっても、気持ちは妙に高ぶったままだった。しばらくその場に立ち尽くして、呼吸を整える。 もしかしたら、先輩はこういうのが嫌なのかもしれない、と思う。 かといって、今まで通りに接してくれている友人を突き放すこともできない。 八雲と付き合いはじめて、恋の悩みを抱えるようになってから、深夜、何時間も答えのない悩みの電話に付き合ってくれたのは柿谷だった。恋人を「友人」と偽っての相談は心苦しかったけれど――それからより、絆が深まった気もする。なのに、八雲と共に暮らし始めて悩みが減ってから、友人への感謝を忘れ、今まで当然だった仕草を突き放しそうになった傲慢さに、江純は泣きたくなった。 重い気持ちでリビングに戻ると、半乾きの歪なクマローと並んで座った八雲が、不機嫌に言った。 「遅い。冷めた。食うぞ」 ローテーブルの上には、いつも江純しか使わないティーポットと二客のティーカップ、それに八雲の姉が持ってきた豆大福が並んでいる。いつも「家なのにソーサーとか必要ないだろ」とマグカップを愛用する八雲にしては珍しい光景だ。江純は八雲の隣に腰掛けた。 「先輩がいれてくれたんですか?」 「他に誰がいるんだよ」 「嬉しいです」 「流し込めればいいだろって思ったけど、紅茶と和菓子ってあわないかもな」 「流し込むって。この和菓子屋さん、好きなんじゃ……」 「甘いものの中ではいけるってだけ。てか甘いもんって、口の中気持ち悪くなんねぇ?」 なんだかめちゃくちゃな事を言っている。でもセックスの時も時々よくわからない事を言ってくるし、だから八雲らしい気もして、江純は曖昧に頷いた。 八雲は不機嫌の原因であるはずの、柿谷とのことは何も言わなかった。大切な親友であると理解してくれているのだ。そしてこのお茶は、ぬいぐるみの償いなのかもしれない。 なんだか余計に切なくなったけれど、今ここに、いけないことは何もないとも思う。 ハルカさんも八雲の姉も――そして柿谷も、この部屋を尋ねてくれるひとたちは、みんな二人を気遣ってくれる。 だから江純は申し訳なく思うのをやめて、身近な人たちへの、そして恋人への感謝とともに冷めた紅茶に口をつけた。香りは飛んでいた。美味しいです、と微笑む。八雲が安心したようにカップを手にとって、二人は無言で大福を食べた。それから江純は、静かに切り出した。 「……そのクマローね。ハルカさんの前にいたお手伝いさんがくれたものなんです。僕が幼稚園に通ってた頃だったかな」 「男に、ぬいぐるみ?」 八雲が怪訝な顔をする。 「正直、いただいた時、不気味だなって思っちゃって。できるだけ見えないように、部屋の隅に置いてたんですけど」 「……お前もはじめはブサイクって思ってたんじゃん」 江純は笑顔で八雲を黙らせ、話を続けた。 「でも、確か、小学校に上がった直後かな。親に意地を張って、自分の部屋で一人で寝れるって宣言したことがあるんですけど、暗い場所はやっぱり怖くて。その時この子が目に入って……はじめて親しみを感じたんです。僕が追いやったせいで、ずっと寂しい思いをさせてたのかもって。それからは毎晩一緒でした」 「……毎晩? いつまで?」 「ここに引っ越すまで、ずっとですよ」 「――はい???」 「ふふ。さすがにもう抱きしめて寝たりはしないですけどね。でも思い出の子だから、枕元で、一番近くに置いてました」 「……あ、そう……。そういや実家のベッドの上に山ほど並んでたな。あの中の一つか」 江純は頷いた。 「でもプレゼントしてくれた方、ご高齢だったから。僕が中学生の頃病気にかかって、そのまま……」 「……ごめん、知らなかった」 「いえ。僕こそ、説明しておくべきでした」 江純はそっと体を寄せた。八雲の手が江純の肩に回った瞬間、テーブルの上の八雲のスマホが着信を告げた。 「……無視」 髪の匂いを嗅ぐように耳に口付けると、江純は続きを期待している顔で、でも力強く押し返してきた。 「だめです、この着信音、お姉さんですよね」 頑固になっている時の言い方だ。八雲は渋々電話に出た。そして後悔した。 『ねぇあんた、瑞祈くんと付き合ってんの?』 「っ……はあ!?」 叫ぶと、江純が目を丸くして八雲を見た。何でもない、と合図するように首を振っても、不審そうに眉をひそめる。 『はぁん。やっぱりねぇ〜』 「……まさか、」 『や、ハルカさんは何も言わないよ、プロだもん。私がかまかけただけ。一瞬返事に間があったから、あんたに直接確認してみたわけ。大丈夫だって、今のとこ知ってるの私とハルカさんだけだから』 「……変な勘違いしてんなよ。俺は何も言ってない」 『まあ、そういうことにしといてあげるけど。瑞祈くんがあんた見る目、こっちがあてられそうな感じだよ』 「もう切る」 『待って待って』 姉の言葉と連動するように、江純が首を横に振った。食べかけの和菓子を指差して、耳に携帯を当てる仕草をする。何が言いたいんだ、と目で聞くと、「お礼を伝えたいので、少し代わってください」と小声で頼んでくる。今姉と会話させたら、何が起きるかわからない。 「あー、江純が和菓子美味いって礼言ってる」 『あ、隣りにいる? ちょっと代わって』 姉の言葉と同時、に江純が「はやく」と唇を動かして、携帯電話に手を伸ばしてくる。仕方なく携帯を手渡すと、江純は頭を下げて丁寧に感謝を伝えはじめた。それからしばらく、相槌が続いた。 「はい……はい――そんなことは、……ありがとうございます――もちろんです。約束します。……はい、また今度、ゆっくり遊びにいらしてください」 江純は途中で顔を赤くして、ちらりと八雲を見た。舌打ちして、新しい大福を頬張る。どうせ姉が余計な事をべらべら喋っているに違いない。 「何だって? 何の約束?」 「えっと……、……今度一緒に、美味しい紅茶のお店に行きましょうって」 お前らどういう仲なんだよとぼやくと、江純がしみじみと言った。 「なんか……こういうのって、幸せですね」 「まあ……姉貴はむかつくけど、美味い。案外紅茶も合う」 「ふふ。和菓子もですけど、僕達、二人だけじゃなくて、いろんな人が支えてくれてるんだなって」 「はあ?」 江純は、八雲の隣にいるクマローを見つめた。キレイにはなったけれど、形は変わっている。でも、新しい宝物を見つけたように微笑んだ。それからぎゅっと腕に抱きついてくる。 「ぬいぐるみ。綺麗にしてくれて、ありがとうございます」 「あ、こら……」 江純は細長い指で、するすると八雲の胸を、腹を、脚を撫でた。早く籠絡させようとでもするように、八雲の腰をさすりながら、ズボンを脱がせてくる。 「まだ昼間……」 電話のせいで消えてしまった甘い気分は、簡単に戻ってきた。抗議する八雲の声は吐息混じりで、誘われるのは、満更でもない。 「してあげたくなっちゃいました」 江純の身体がずるずるとソファの下に沈んでいく。下着の上から喰まれて、身じろいだ。 「お前、姉貴に何言われたんだよ」 「これ……気持ちよくなってくれてるの、全部わかって、大好き……」 「自分がされんのは、嫌がるくせに」 八雲は苦笑した。江純は聞こえないふりをして、性器を取り出してキスをしてくる。 乱れはじめた息を誤魔化すように、指で耳を撫でて気持ちよくしてやると、潤んだ瞳が見上げてくる。今すぐしたくて、我慢できなくなっている時の顔だ。その証拠に、咥えた唇の端からははやくも唾液が溢れはじめていて、愛撫が荒くて、少し怖い。 「せんぱい……」 まだ硬さの足りない性器を焦れたように撫でながら見上げられた。目で、「これじゃだめ?」と聞いてくる。昨日より、前髪が短い。あのいけ好かない男が切ったのだ。八雲より器用で丁寧で親切で気が利いて、誰とでも円満な関係を築いていそうで、多分人柄を比較されたら八雲はどうやっても敵わない。嫉妬がこみ上げると、繋がるために必要な形がすぐに整った。江純が不思議そうに見上げてくる。何も言わずソファに引き上げて、キスも愛撫も飛ばして下を脱がせた。ふらついて彷徨った江純の手が、ぬいぐるみを転ばせた。 「あ、だめ、待っ……」 口の中に指をねじ込んだ。それで江純の頭の中も身体も、すぐに支配できると知っている。 「濡らして」 わざと低く命じた。「早くしたい」と目でねだってきたのは江純なのに、まるで脅されているかのような泣き顔でのろのろと舌を絡めてくる。積極的なくせに八雲が乗り出すと途端に身構えることがあるのはどうしてか長らく理解できなかったが、何かを抱え込んでいる時にそうなるらしいとようやくわかってきた。全部忘れるか吐き出させてやるために舌をくすぐって唾液を分泌させると、江純の腰が切なげに前後した。 絶対に逆らえない指で口の中を蹂躙されながら、江純は八雲の姉に言われた言葉を思い出していた。 『うちの弟、可愛くなくてほんとムカつくけど、努力家なとこは尊敬してるんだ。今までピアノ応援してたのって、身内じゃ私だけでさ。でも今は瑞祈くんが一番近くにいるから……これから色々あると思うけど、味方でいてあげてほしいなって。私が言うのもおかしいけど、弟をよろしくお願いします』 本当は、お茶の約束なんてしていない。 なんで嘘を言ってしまったのかはわからないけれど、悪い嘘じゃない、と思う。 柿谷との友情も、両親に黙っているのも、ハルカさんを問い質さずわからないままにしておくのも。 今日傷ついた人はどこにもいないはずだ。 自ら下を脱いで、ソファに寝そべって抱えた脚をせいいっぱい開く。整えてもらったばかりの前髪に八雲の指が触れてきた。撫でられて、耳にかけられる。 やっぱり、先輩と省吾の指は全然違う――そう思いたかったのに、違いを見つけられなくて動揺する。体温も乾燥の度合いも、髪をたどる指の動きまで、ほとんど一緒だった。 「キス……」 どうにかして違いを見つけたかった。髪を撫でてくれた後のそれは、八雲にしかできないことだ。なのに八雲は、江純の裏切りを検閲するかのようにじっと見下ろしてきて泣きたくなった。 「前髪、もうちょっと長いままでよかったのに」 セックスの時、顔を見たがってよく前髪に触れてくる八雲は、そう言って笑った。応える時間を与えず、すかさずキスをされた。そうやって友人を反対しながら認めてくれた。 早く大好きな人でいっぱいになって、今日の優しい人たちのことを、自分の嘘を、ぬいぐるみの思い出を――なぜか燻っている罪悪感を飲み込んでしまいたかった。それを知っているみたいに、ソファの上じゃ成り立たないくらい激しくしてくれたから、江純はすぐに救われた。 2019.12.24
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