ティアラ文庫刊『解任直前の聖女ですが、初恋の王子様の添い寝係に任命されました』の番外編、『王子様は媚薬に蕩ける新妻を底なしに愛しすぎる』の裏話です。 俺は豚だ。 名前は、ヴィルヘルムという。 ご主人様のレティシアは〝セリーヌ〟と呼んでメス扱いするけれど、彼女の母親は、針と糸で俺に命を吹き込みながら、 『あなたの名前はヴィルヘルムよ。カッコよくて勇敢な男の子なの。もうすぐ生まれてくる子のお友達になってあげてね』 と何度も言い聞かせてきた。俺が自我に目覚めたのも、彼女の強い想いがあってこそだろう。 幸か不幸か、俺は十年近くの間、自分がどんなに醜い姿をしているか――つまり、鏡というものの存在を知らずにいられた。 自分はレティシアに相応しい身成の男の子で、彼女と一緒にすくすくと成長していて、だから俺とレティシアは常に行動を一緒にして、愛してくれているのだと信じ切っていたのだ。 初めて『おや?』と思ったのは、レティシアが五歳になった頃のことだ。 『あなたはピンク色だから、女の子ね!』 意味がわからなかった。 その上セリーヌなんて女々しい名前をつけられ、挙げ句、隣りで縫い物をしていた母親にまで『あら、可愛い名前じゃない』と言われて、俺は酷く傷つき動揺した。 『ヴィルヘルムって名付けてくれただろう! ちゃんとレティシアに説明してくれ!』 と大声で母親に抗議したけれど、全く届かない。 後になって思えば、『ピンク色』という言葉にも疑問を抱くべきだったと思うが、ともあれこの時は、『俺は勇敢な男だ。彼女が喜んでくれるなら、名前や性別なんて大したことではない』とリンゴ畑より広い心で気持ちを立て直し、再び平穏な日々が戻った。 それからまた五年後。 十歳の誕生日前に、思い出すだにおぞましい出来事が起きた。 レティシアは初めて、俺を抱えたまま、鏡という名の悪夢を覗き込んだのだ。 『セリーヌ……見て! ここ。首のとこ、色が変なの。どこにもぶつけてないのに……!』 レティシアの言う、首元の妙な痣も気になる。でも俺はそれどころではなかった。 ガラスのような不思議な板の中に映った俺は――豚の、ぬいぐるみだった。 しかもレティシアの腕にギリギリ抱えられるほどの。枕サイズの。 おかしい。ありえない。俺はレティシアと同じくらいの背の高さの美男子のはずだ。 両手脚をばたばたさせたつもりだったし、悲鳴もあげた。でもレティシアは自分の首元を不安げに覗くばかりで、俺の言葉はやっぱり届かなかった。 しばらく現実を受け入れられずにいたが、ある出来事をきっかけに自尊心を取り戻した。 それは、聖痕があらわれたレティシアを教会の人が迎えに来た時のこと。私物の持ち込みは一つだけだと告げられたレティシアは、迷いなく俺を抱き締めてくれたのだ。 それから俺は、レティシアの唯一の宝物になった。 寂しがって泣いているレティシアの涙を拭ってあげられるのは俺だけだ。 毎晩彼女の悩みを聞いて支えてあげられるのは、俺だけ。 お互いを大切に想い合う気持ちに、姿形は関係ない。心からそう思えて、俺はプライドをかなぐり捨てた。 彼女がお姫様ごっこで笑顔になってくれるなら、リシャールとかいうクソ王子の役だってやったし、寂しがっている時は抱き締められてぎゅうぎゅうに潰されたりもしたし、枕がわりにされて涎をたっぷり吸ったことだってある。 それにしても、レティシアは趣味が悪い。 あんな意地悪を言って泣かせて来た傲慢なヤツのことを、十年近く、毎日考えるなんて。俺の方がずっとレティシアを想ってるのに。 でもどうせあいつとは会えやしない。 彼女には酷な話だけれど、身分が違いすぎる。 だから俺は、まさかレティシアを奪われる日が来るなんて思いもせず安心しきっていた。 実際、俺たちの蜜月は続いた。お互い二十歳になるまで、誰にも邪魔されずに。 大好きなレティシア。 声が伝わらないことはとても歯痒いけれど、彼女のキスも抱擁も、俺が一番はじめにもらった。 誰とも結婚出来なくても、一生俺がそばにいる。生まれてから死ぬまで一緒だ。 なのに。なのに……! 「あ、あっ……ぁんっ……! ぁあぁ……っ」 ぎしぎしと、激しくベッドが揺れている。レティシアの声は枯れ切って、哀れなほどだ。 それにあわせて、俺の丸い身体もかすかに揺れていた。中の綿を新しく詰め替えられてから、身体がやけに弾みやすくなったせいだ。正直、酔って少し気持ちわるい。 「っ……出すよ……いい? それとも、もっと欲しい?」 は? ふざけるな! 図々しい盗人め! レティシアが泣いてるだろうが! さっさと抜いて射精して寝ちまえクソオナニー野郎! ……そう言えたら、どんなに良いだろう。いつだって俺の言葉は届かない。 ひっくり返ったカエルみたいに哀れな格好をさせられたレティシアは、健気に言った。 「リシャール、さまの……すきに、して、ください……」 ああ…………。レティシア、駄目だ……それは一番言ったらいけない…………。 案の定クソ王子は、「本当にいいの? 眠れなくなっちゃうよ?」なんて調子に乗って、でもどうせすぐ出そうで自信がなかったに違いない。一度抜いてレティシアの隣に横たわり、背後から挿入して刺激を変えた。 「あぁあ……っ、あぅ……!」 くそっ、くそっ、くそっ……俺の大事なレティシアを汚しやがって!! 俺には、性欲というものがよくわからない(正確には、レティシアが俺を揉み洗いしてくれる時、脚の間をもしゃもしゃ触られると変な感じにむずむずするから、その延長かと思えば、少し想像できそうな気はするけれど)。 でもとにかく、こうやって見せつけて、俺からレティシアを奪ったことを勝ち誇って、自慢してやがるんだ!! どんなに罵ってもベッドの揺れは止まらず、酔いが悪化して吐き気がこみ上げてくる。 もし本物の口がついていたら、間違いなく中の綿を戻していただろう。 「レティシア……このままいっぱい、ずーっと気持ちいいの、してあげるね」 「らめ、れす……あした、やくそくが……」 「ああ……聖女様に会いに行くんだっけ。でも大丈夫、ちゃんと起こしてあげるから」 「そういうもんだいじゃ……あ、だめ……あぁあ……!」 横向きになって後ろから王子に抱かれたレティシアと目が合う。すると彼女はさっと目を逸らし、涙でぐちゃぐちゃに濡れた顔を両手で覆った。 いつからか、彼女は乱れた姿を俺に見られるのを避けるようになった。今まで俺たちの間に隠し事なんてなかったのに。 レティシアの視線はいつも王子を探している。 妄想の中で遊ぶことも、俺を抱き締めて二人きりで眠ることも、出先に連れて行ってくれることもなくなってしまった。 俺はいつも、寝室に置いてけぼりだ。 それでいつからか、こんな不安に苛まれるようになった。 もしかしたら俺は、いつか捨てられてしまうのかもしれない――と。 レティシアはもうすぐ二十一歳だ。俺と四六時中一緒にいるなんて恥ずかしいだろうし、王子に俺の存在意義を全部奪われた今、必要とされる場面もない。 だから今日の昼間、「明日は一緒に出かけましょ」と話しかけてくれた時は、泣きたいくらい嬉しかったのだ。ああ、まだ俺を覚えていてくれてる、まだ少しは必要なのかなって。 でももし、別れが近付いているなら――いつか、忘れ去られてしまうなら。 一度だけでいい。ほんの僅かな時間だけでもいいから、レティシアと話したい。 王子の愛なんて目じゃないくらい、深く、深く愛していることを伝えたい。 翌日の日中。お人好しなレティシアは俺を抱えて、義妹の一人、一番末のチェルシーとともに、都の外れにある怪しげな店を訪ねた。天井いっぱいに乾燥した草花が吊られ、棚には薬瓶が所狭しと並び、狭い店内は独特な香りに満ちている。 「惚れ薬を探しているんですの!」 チェルシーは身分を隠すためのフードを被ったまま、男の店員に叫んだ。夏が近付いて暑いのに、王族ってのは大変なものだ。 他に客はいないが、レティシアは大胆な相談の仕方に驚いたのだろう。俺をぎゅっと抱いて、「あんなに必死になって……本当にユーグのことが好きなのね」と眉を寄せた。 聖女から国民皆のお姫様になったレティシアも、同じくフードを被っている。元聖女様が、すっごく綺麗で可愛い子だって噂が広がって、今や島中の女の子の憧れのまとなのだ。 「殿方の心を射止められる薬なら、いくらでもお支払いしますッ!」 チェルシーが鼻息荒くカウンターに乗り出すと、中年の店員はけだるげに肩を竦めた。 「悪いけど、そんな都合の良い薬はないね。そんなもんがあったら今頃俺は大金持ちだ」 「そんな……! あちこちで噂を聞いて、やっと店の場所を突き止めたのに……!」 「チェルシー、やっぱり薬に頼るなんて良くないわ。それにこのお店って……」 無許可での営業を疑っているのだろう。レティシアが店を見渡すと、察したチェルシーが振り向いた。 「そうよ。でもお義姉様だって店に足を踏み入れたんですから、一蓮托生ですわ!」 「わっ……私は、あなたが一人で知らない店に行くって言うから、危ないと思って……!」 俺はレティシアの胸の膨らみに甘えながら、『そうだそうだ! レティシアは何も悪くないぞ!』と味方した。昨夜激しかったせいで朝からずっと腰をかばっているのに、護衛を撒くために全力疾走させるなんて、なるほどクソ王子の妹らしい。 「あー、そういえば、アレなら惚れ薬に近い効果があるかな」 男がカウンター下の棚から小瓶を取り出すと、チェルシーが目を輝かせた。 「これは何ですの? どうやって使うんですの?」 「お茶に数滴垂らして飲めばいい。いわゆる強壮剤だな。これを気になる相手に飲ませて迫れば、男は間違いなく目の前のアンタを求めてくるだろうね」 「競争剤……? 他のライバルに勝てるってことですの?」 「まあ。そんなところかな」 怪しすぎる。俺の聡明なレティシアも反対した。でもクソ王子の妹は言うことを聞かず――。 「ふっかけられちゃったけど、これでユーグ様を落とせるなら安いものだわ!」 王女の足取りは軽い。一方レティシアは撒いた護衛を案じつつ、やはり不安なようで。 「ねえ、チェルシー。それ、一晩だけ私に貸してくれないかしら?」 「えっ。どうして?」 「その……実は、えっと……私も、リシャール様のお気持ちが、最近よくわからなくって」 嘘だ。昨夜だって、何度も何度も俺の前で……とっても可愛い顔をしていたんだから。 「まあ……! まさか、お兄様が浮気でも!?」 「えっ!? 違うわ! ただ……夫婦って、こう、色々あるのよ」 チェルシーはしばらく迷った後、「ユーグ様が都にいらっしゃる間に返してくださいね」とレティシアに小瓶を差し出した。 チェルシーとは表通りで別れ、レティシアは大聖堂の食堂で聖女と一緒に昼食を摂った。 珍しく俺を外に連れていってくれたのは、閉ざされた場所で暮らす彼女と、少しでも楽しく会話をするためだ。 「実家では豚の世話をしてて、お気に入りの子がいたって言ってたでしょう? だから、私のお気に入りの子も見てもらおうと思って」 レティシアがそう言うと、少女は嬉しそうに笑って俺を抱きしめ、名前を聞いてくれた。もちろん、俺はヴィルヘルムだよって名乗ったけど……レティシアに「女の子で、セリーヌっていうの」と代弁されてしまった。 それから自室(元は、俺とレティシアが一緒に暮らしてた部屋だ)へ招くと、「女の子なら、リボンを結んだ方が可愛いわ」と俺の短い前足に赤いリボンを結んでくれた。 男だからリボンなんて恥ずかしいけど……昔のレティシアと同じ環境で頑張っている少女が満足してくれるなら、本望だった。 それからまた憂鬱な夜が訪れた。 いつも先に寝室に入るのはレティシアだ。俺を隣に置いて、ソファーでお茶を飲みつつ王子を待つのが日常だけど、今日は違った。 怪しい小瓶を睨んで、かれこれ十分ほどうーうー唸っている。 「やっぱり、私が試すしかないわ。お父様もお仕事が大変そうだし、もし跡継ぎのユーグに何かあったら大変だもの……!」 駄目だ、絶対にいけない、中身を水に取り替えて何食わぬ顔で返せばいいじゃないか! レティシアは真面目すぎるよ! 必死の説得は、もちろん届かない。俺は無力だ。 「大丈夫よ。だって私の心はもうリシャール様のものだもの。説明通りの効果があったら、私、もっともっとリシャール様を好きになるってことだわ!」 俺にとっては、全然、これっぽっちも大丈夫じゃない。あいつは憎いライバルだ。これ以上レティシアがあのクソ野郎に心酔するなんてまっぴらごめんだ。 喚いている間にも、レティシアは紅茶に薬を数滴垂らし、「そんなに心配しないで」と俺に微笑んで一気に飲み干した。 「……、……、……、……別に、なんともないわ。変な味もしなかったし」 レティシアは咳払いをしたり、伸びをしたり、深呼吸をして体調を確かめた。 「うーん……詐欺だったのかしら?」 それから、ふあぁ、と可愛らしいあくびをして、「なんだかもう眠くなってきちゃったわ。護衛を撒くのに、沢山走ったせいね」と珍しく王子を待たずにベッドに横たわった。 「セリーヌ。今日も一日、楽しかったわね……聖女様も元気そうで……」 アメジストに似た高貴な瞳が、うとうとと閉ざされていく。 「なんだか、すごく疲れてるみたい……頭がふわふわして、へんな……かんじ……」 ベッドでレティシアと二人きりで向き合うなんて、いつぶりだろう。 王子が現れるまでは、毎晩並んで寝そべって、語り合うのが日常だった。 レティシアの妄想を、夢を叶えてあげて。そこではレティシアは綺麗なドレスを着て、俺も理想の格好をしていられた。美男子の王子で、レティシアを抱き締めてキスをして。一番幸せな時間だった。 今日の夜は、久々に俺だけのレティシアだ……。 彼女の穏やかな深い寝息に誘われて、俺もそっと心の目を閉じた。 次に目覚めた時、俺は今日の昼間訪れた、大聖堂の聖女の部屋に立っていた。 歴代の聖女たちが休息を取った大きなベッドに、年季の入ったシンプルな鏡台。書き物机に、朝一番の太陽が見られる立派な窓。 昔はレティシアを泣かせる大嫌いな場所だったけれど、今となっては、ここで暮らしていた時が一番よかったと思う。ここなら、レティシアは毎日欠かさずその日の出来事を俺に語って、抱きしめながら眠ってくれたから。 窓に歩み寄る。昼と夜の混じり合った空を見て、どうやら夢の世界らしいとすぐに気付いた。 今まで俺、夢なんて見たことがあったっけ、と窓に手を添える。 ――手? 俺は手を見た。 節ばった指。 五本ある。 ガラス窓をよく見ると、黒髪の青年と目があった。 真っ黒な、夜みたいな目が、じーっと俺を見ている。 思わず覗き込む。窓に額がごつんとぶつかる。瞬くと、鏡にうつった青年も同時に瞬く。声にならない悲鳴が漏れた、その時。 「うぅ……ん……」 ベッドを振り向くと、瞼を擦りながら身体を起こしたレティシアと、真っ直ぐ目があった。 お互い、口を半開きにしたまましばらく固まっていた。それから。 「っき……きゃあああああああああああっ!!!!」 逃げようとしたのだろう。レティシアは四つん這いになって、でも腰が抜けていたのか、盛大にベッドから転げ落ちた。 「ああっ、レティシア! 大丈夫? もう、いくつになっても慌てん坊なんだから!」 慌てて駆け寄って抱き起こすと、ぽかぽかと殴られる。 「きゃああっ! 嫌っ! 触らないでっ! ここに男性は入れないはずよ!」 「いたっ、痛いよっ、お、落ち着いて。多分ここは、お互いの夢の中で……」 「……夢?」 レティシアは振り上げた拳をぴたっと止めて、でも警戒は解かずに、視線だけで周囲を見渡す。 「……確かに変だわ。……そうよ、私、お城の寝室で眠った筈なのに……」 「……!! すごい、会話が出来てる! 俺の声が届いてる!!!」 「きゃ……!」 思わず抱きつこうとすると、仰け反って避けられた。そのまま仰向けに倒れ込みそうな勢いだったから、追いかけたくなるのをぐっと我慢する。 「な、何を言ってるの? あなたは誰?」 体勢を立て直したレティシアに、上目遣いに睨まれる。いつだって見下ろされるばかりだったから新鮮だ。クソ王子がしょっちゅう彼女を抱き締めるのがよくわかった。だってレティシアってば、俺よりちっちゃくって、とっても可愛いんだ。 「わからない? セリーヌだよ! ……本当の名前は違うけど」 「…………、セリーヌ? バカを言わないで。あの子は豚で、女の子で……」 「バカじゃないよ! あ……ほら、見て! この手首の赤いリボン、今日の昼間に聖女様が俺の前足に結んでくれたやつだよ!」 「……! ……でもそんなリボン、どこにでもあるわ」 レティシアはじりじりと尻で後ずさって警戒を高める。 「じゃあ……じゃあ、これはどう? 五歳の時お漏らしをして俺のせいにしたよね?」 「!? それは、お母様しか知らないはず……!」 「ふふっ。誰も知らないことだって知ってるよ? 例えば、胸が膨らみはじめて下の毛が生え始めたのは聖堂へ来て初めての夏頃だ。クソ王子に十年前言われた酷い言葉だって覚えてるし、毎晩ベッドで裸になって、アイツに意地悪なことされるのが大好きだってことも知ってるんだから!」 声が伝わることに興奮して、俺はレティシアが涙目になってぷるぷると震えていることにも気付かず、得意になって喋り続けた。 「あれってそんなに気持ちがいいの? 俺がいつもこの姿だったら、王子が留守の時、かわりにしてあげられるのに。毎晩見てるから、レティシアがどうされるのが好きか、ぜーんぶ知ってるしね! ああ、そうだ。ずっと伝えたかったんだけど、ベッドの揺れが激しくて吐きそうなんだ。だから、あれをする時は、俺のことは隅っこの方に……」 「やめてええええ!」 叫声に遮られて口を噤む。レティシアの顔が、見たことがないくらい赤くなっていた。 「……、……、……ほんとに、ほんとにセリーヌなの……?」 「そうだよ! やっとわかってくれた?」 「でも……人間だわ。男だし」 「俺、男だもん。ほんとの名前はヴィルヘルムっていうんだ!」 えっへん、と胸を張る。王子に負けない、レティシアを抱き留めるのに相応しい立派な胸板だ! 「ヴィルヘルム……?」 「うん! お母さんに聞いてみてよ。俺を作ってくれた時、そう言ってたんだから。それにしても……俺だって、レティシアと話せてるなんて信じられないよ! すっごく嬉しい! もしかしたら、寝る前に飲んだあの変な薬のせいかな?」 「そ、そうね……他に考えられないし。私もあなたと話せて嬉しいけど……よりによって、どうしてこの部屋なのかしら。ちょっと息苦しいわ」 「……そうだよね」 レティシアがこの部屋を嫌う気持ちは良く知っている。でも俺にとっては、レティシアとの蜜月が続いた大事な場所だ。 彼女は顔を赤らめたままちらちらと俺の顔を観察すると、落ち着かない様子で立ち上がって、ドアノブをガチャガチャしたり、窓を開けようと試みた。 でもやはり、夢なのだろう。全く動かない。 彼女はまるで俺から逃げようとしてるみたいで。 ……、やっぱり、俺より王子がいいのかな。 だって俺は、抱き締めてあげられない。レティシアが顔を埋めてくれた時に、涙を吸ってあげることくらいしかできない。 俺は悲しい気持ちで立ち上がって、窓をガタガタやっているレティシアの背中に問いかけた。 「レティシア……俺のこと、避けてる? なんだかぬいぐるみの時と違って、よそよそしいよ……」 「そっ……そんなことないわ」 そう言いながら、レティシアは窓の方を向いたまま振り向いてもくれない。きっと、窓の外には……俺より大好きなお城が見えるからだろう。 「俺、レティシアのことなら大体わかるよ。なんで嘘つくの? 俺、かっこよくない? 黒い髪の毛じゃなくって、王子みたいに、きらきらがいい? 豚の方がまだまし? それとも……それとも……、……もう俺は……必要ないの?」 いつ目が覚めて、この魔法が解けてしまうかわからない。 だから俺は、思い切って一番悲しい質問を口にした。 胸が貫かれたように傷んで、鼻と目の奥がつんと痛くなって、レティシアが見えにくくなる。 ぬいぐるみだった時にはない感覚に驚いたけど、今の感情に、すごくぴったりな感じがする。 「セリーヌ? どうしたのよ、急に何を言い出すの」 やっと俺を振り向いてくれたレティシアは、やっぱり俺を見たくないみたいで、視線が泳いでいる。 「……セリーヌじゃない、ヴィルヘルムだよ……」 「セ……、……ヴィルヘルム。あなた、泣いてるの……?」 「泣く……?」 そうか、これが涙なのか。 レティシアが泣いているのは何度も見てきた。こんなに辛い思いをずっとしてきたんだ、と思うとますます愛しくなる。 「……俺、ずっと長い手足に憧れてたんだ。そしたらレティシアに抱きしめられるだけじゃなくて、王子みたいに包み込んであげられるから。でも……それも王子がいい? 俺はもう、」 「ああ、もうっ! 違うわ! そうじゃないの!」 急に叫ばれて、びっくりして涙が止まる。 「だって……だってあなた、格好良すぎるんだものっ!」 「へ……?」 涙をごしごし拭うと、レティシアの顔が更に真っ赤になっていた。 「今まで可愛い豚で、女の子だと思ってたのに……急に私よりずっと大きくなっちゃって、しかもあんまり素敵だから、ドキドキしちゃうの! こんなにカッコいい男性、リシャール様以外見たことないし。だから動揺して……どう接すればいいのかわからなかったのよ!」 「俺が、カッコいい? 王子と同じくらい……? 嬉しい! 嬉しいよ! レティシアに褒められた!!」 衝動のまま駆け寄って抱き締めると、レティシアはもう逃げずに、「苦しいわ!」と照れくさそうに笑った。 最初で最後かもしれない抱擁を忘れたくなくて、ぎゅうううっと両腕に力を入れると、レティシアも抱きしめ返してくれた。それは、いつも俺を頼って抱き締めてきたレティシアが、初めて俺のためにしてくれた抱擁だった。 「俺……すごく怖かったんだ。レティシアは王子に夢中で、俺はいつも寝室においてけぼりで。そのうちベッドの下に置いたまま、忘れられちゃうんじゃないかって……!」 感情が昂ると喉から変な震えがこみ上げて、声が上手く出せなくなってくる。そうすると、レティシアが背中を優しく撫でてくれた。 「そんなわけないでしょう? でもセリ……ヴィルヘルムの言う通り、二人きりで過ごす時間がなくなっちゃってたわね。ずっと支えてくれていたのに……不安にさせてごめんね」 俺はわんわんと泣いた。そうすると、もっともっと素直な心が出てきて、込み上げるまま懺悔した。「ずっと、俺からレティシアを取った王子が悪いんだって思ってた。王子なんていなくなっちゃえって。ほんとは、いい人だってわかってたのに。レティシアの大好きな人なのにごめんなさい」って。 それでまた、すとんと心が楽になった。 レティシアは俺が泣いている間、ずうっと背中を撫でて許してくれた。生まれながらの聖女様みたいに。 嗚咽がおさまると、少し照れくさくなって、それでも夢が覚めるのが怖くてずっと抱きしめ続けていると、レティシアがとんでもない事を言いだした。 「夢が覚めたらお別れなのね……。でも、またあの薬を飲めば、こうして話せるかしら?」 「……! だめだよ! あんなの何度も飲むもんじゃない! 今だって、レティシアの体がどんな状態になってるかわからないんだから。こうして話せただけで十分だよ!」 「優しいのね……。あなたがいつもそんなふうに心配してくれていたから、私も頑張れたんだわ」 俺たちは抱きあい続けた。 レティシアは、いかに俺に助けられてきたかを、言葉を尽くして伝えてくれた。俺はずっとレティシアの声を聞いていた。 だって俺の言いたいことは、今話しきれる量じゃない。 それにこの先はもう、言葉で伝えられなくても大丈夫だって確信できたし、俺の言いたいことは、二十年間――たったこれだけのことだったから。 「レティシア。大好きだよ。ずっとずっと、友達でいようね」 頬にキスを送りあう。俺が何度もすると、レティシアも同じ数だけ返してくれた。 「私もヴィルヘルムのこと、大好きよ」 俺は最後に、ちゅって唇にキスをした。 唇にするのが特別なものだってことは知っているし、レティシアは目を丸くして顔を真赤にしてたけど、このくらいはいいと思う。 突然、背中をむんずと掴まれた感覚があった。 ああ、きっと夢が終わるんだって予感して、早口で伝える。 「王子によろしく伝えて。それから……もうセリーヌでいいよ。ううん、セリーヌがいい」 ヴィルヘルムって呼ばれて気が付いた。 セリーヌって名前は、俺にとってもいつの間にか大事な名前になってたんだって。 なんたって、レティシアがつけてくれた名前なんだから。 「そうね、ぬいぐるみの時は……そうさせてもらおうかしら。でも今はだめ! かっこよくって、全然セリーヌって感じじゃないんだもの!」 俺たちは、笑い合って別れた。 俺はその日、ご主人様に直接愛を伝えられた、世界で一番幸せなぬいぐるみになった。 目が覚めた時、レティシアは夢の中の会話なんて忘れてしまったんだって思った。 だって薬のせいで、レティシアの身体は……酷い状態になってたんだ。 でも、その酷い状態について王子に助けを求めたことには、もう嫉妬しなかった。 だってあの会話は嘘じゃない。レティシアが言ってくれたことも、抱きしめあった感触も、全部事実だ。 きっともう一度夢の中で会ったら、きっとレティシアはまた同じ事を伝えてくれる。そう信じられるだけで十分だと思えた。 でも翌日の夜、レティシアはいつも通り一人で寝室に戻ってくると、王子を待たず、俺を抱き締めて横になってくれた。それで、レティシアはちゃんと俺との夢を覚えていてくれたってことがわかったんだ! 「セリーヌ、昨夜はごめんなさいね。あなたを寂しがらせてたって知ったばかりなのに、私、身体がおかしくなってて……」 レティシアはそこで口をつぐんで、顔を赤らめた。 「あああっ、やっぱり駄目っ! 寝室でのことを全部見られてたんだと思うと、恥ずかしくて死んじゃいそう……っ!」 俺を抱き締めたままベッドの上で足をばたばたとさせた後、今日は王子とデートとしたこと、はじめての仕事が上手くいったことを報告してくれた。それから、城壁から見る景色はすごく綺麗だから、今度は俺をつれていってくれるって、デートの約束まで!! それから王子が寝室に入って来ると、レティシアは俺を抱きしめたまま起き上がった。 彼はちょっと不満そうな顔だ。俺がレティシアの大きな胸に、むぎゅっと顔を埋めているからに違いない。 「リシャール様、今日もお疲れ様です」 「最近はずっと、セリーヌを枕元に置いたままだったのに。昨日も今日も抱きしめて……珍しいね?」 「え……ええ。ちょっと、セリーヌの出てくる夢を見て……」 レティシアが、俺を見下ろして困ったように笑う。きっと『夢だなんて言っちゃってごめんなさいね』と謝りたいんだろう。 でもしょうがない。レティシアを大好きで、心配性の王子のことだ(俺のほうがずっと好きだけどね!)。俺と話したなんて言ったら、きっとレティシアの頭がおかしくなったのかと思って、ものすごく心配させてしまう。だから俺は、『いいよ、そのくらい』と頷いた。 「それで、夢の中で少しお話したんです」 「へえ? もしかして……僕のこと、怒ってた?」 「えっ……」 レティシアが驚いて王子を見て、もう一度俺を見下ろす。 ベッドに腰掛けた王子が、ちらっと俺を見てくる。ばちばちっと、俺と王子の視線の間で、火花が散った――気がした。 でもきっと、今の火花も、レティシアとのいちゃいちゃを俺に見せつけてるって思っていたのも、気のせいだったのだろう。王子はレティシアに抱きしめられてる俺の鼻先をちょんとつついて苦笑した。 「やっぱり、そうなんだ? 僕、ずっとレティシアと一緒になれたことで浮かれていて……セリーヌに謝りそびれていたから」 王子はレティシアから俺を抱き上げて、背中を撫でてきた。 ううっ、男に抱きしめられるなんて、気持ち悪い! またキスされちゃったらどうしよう! 「セリーヌを借りていた時、僕、彼女に誓ったんだ。レティシアは絶対泣かせないって。でも……守れなかったから」 どうせ口先だけだと思って忘れていたけど、そういえば、そんなことを言ってたな、と思い出す。 頬を染めたレティシアは、「そんなお話をしていらしたんですね」と目を丸くした。 「セリーヌ。誓いを破ってごめんね。男の風上にも置けない、いけすかないヤツだと思ってるかもしれないけど……。これから、もっともっとレティシアを幸せにするから」 耳元にキスされて、ぞくぞくっと尻尾のあたりに嫌な感じが走る。 もういいよ! そんなの許すから! レティシア、早く助けて! このままじゃ鼻先にまでキスされちゃうよ! 俺が男だと知っているレティシアには、気持ちがよーく伝わったんだろう。「あっ……」と頬を引きつらせて、「お、怒ってなんてなかったわ! セリーヌは、そんな心の狭い子じゃないもの!」と言ってぎこちなく王子の手から俺を取り返し、それとなく耳のあたりを撫でて――王子の唇の感触を拭ってくれた。 「セリーヌは、リシャール様によろしく、って言ってました」 「ほんとに? よかった……! 僕の方こそ、改めてよろしくね」 王子は俺の頭を撫でて、それから俺ごとレティシアを抱き締めた。 二人の間で、むぎゅ、と潰れる。 それで、レティシアと一緒に、はじめて王子と出会った時のことを思い出した。 あの時の俺は、レティシアの涙でびしょびしょだった。 でも今は、上の方で、くすぐったい笑い声と、ちゅっと軽く口付けあう音が聞こえてくる。 それから、二人の熱が綿に染み渡ってきて……少しずつ、キスの音が深くなって。 レティシアは俺を、ベッドの一番隅に丁寧に置いてくれた。 背中を向けさせられて、二人の姿は見えないし、揺れも少ない。これなら吐き気も大丈夫そうだ。 俺は、先に眠ることにした。 レティシアは、見られるのをすっごく恥ずかしがってたから。 レティシアの幸せを、今は心から祝福できるから。 デートの約束をしてくれたし、きっと明日も話しかけてくれるから。 もう何も不安はないから。 俺たちの友情は、一生ものだから。 2022.09
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